わが青春…学びやと共に (1)

東根小屋町校舎

2014年09月01日更新

秋田中学の思い出

菅原 繁雄(昭和13卒)

 わたしが秋田中学に入学したのは昭和8年で、ちょうど創立60周年の節目の年であった。当時の校舎は東根小屋町にあり、今の中通小学校の真向いで、古色蒼然としていたが、風格のある明治の建築の名残りをとどめていた。風の強い日は建物が軋むので、午後の授業は打ち切りになることもあった。

 学校の規模は1学年約200名で5学年、1学級40名の5クラスで、校歌にも”秋田の中学一千健児”とあるとおり、全校の生徒数は約1000名であった。

 5年間汽車通学をしたので、朝は早く奥羽線の大久保駅から1時間足らずで秋田駅に着き、ほぼ集団登校のかたちで、8時前には学校についていた。

 服装は制服が霜降(しもふり)の小倉服で、制帽は矢留の校章に白線をつけていた。街(まち)で上級生やお互いに出会うと挙手の礼をかわし、先生に会うと一斉に停止敬礼をすることになっていた。

 通学時には1年から3年までは背嚢(ランドセル)を背負い、4、5年になると提げ鞄(さげかばん)になるので、にわかに優越感がわいた。

 教室の坐席は、壁頭と称して成績の良い順に後から坐るようになっており、前の者は黒板脳(なずき)と自嘲ぎみに呼んでいた。

 教育課程はくわしく覚えていないが、英数国漢をはじめ、教練まで必修科目になっており、教職員のほかに配属教官(佐官・尉官・下士官等数名)もおった。

 毎週月曜の朝には、全校生徒が校庭に集合し、皇居遙拝の後、校長の訓示を聞く朝礼があった。日常の授業は8時半すぎからはじまり、3時すぎまで、土曜は昼すぎで放課になっていた。部(課外)活動も活発で、野球・柔剣道等は全国大会でも輝かしい戦績を残していた。また学校行事も多彩で、春の全校遠足(仁別の学校林まで)、運動会(雲隊別対抗)、秋の学校祭等、今でも幽(かす)かに記憶がある。また在校中2年の時は由利の平沢海岸で海水浴、3年の時は大湊の海軍要港で艦内生活の体験、4年の修学旅行、5年時の17連隊での軍事教練と、いろいろな体験をした。

 先生がたは全国的規模で異動されるので、他県のかたが多く、生徒は授業以外でもいろいろな面で、感化影響されることが多かった。先生の特徴をす早くみつけ、じょうずに渾名をつけるのが得意で、渾名は先輩から後輩に受け継がれて、生徒どうしではむしろこちらにネームバリューがあったようである。


東根小屋町時代の校舎

 日常の授業の一齣(こま)をすこし紹介すると、国語のN先生は”秀才”というニックネームで、ご自分の学生(一高・帝大)時代の話をよく紹介するかたであった。タバコは洋もくを吸われるとのことで、教卓にウエストミンスター(高級煙草)をあげておいたら、めざとくみつけられ、「これは誰からのプレゼントですか」とにっこりし一件(ひとくだり)の自慢話になった。英語のT先生は”ジャイ”で、巨体をゆすりながら指名された生徒の発表がすんだところで、皮肉たっぷりの調子で名訳を披露される。地理のS先生は地図をかける長い棒で、授業中居眠りをしている生徒をコツコツとやり、「向こう三軒両隣」とまわりの者も共同責任をとらされた。

 忘れられないのは年1回の生徒大会である。校紀粛正が表向きの看板であるが、実は5年生の下級生に対する気合いかけで、土曜の放課後校舎から体育館への廊下(地獄の三丁目といった)を通り、胡坐(あぐら)ですわらされると、演壇に生徒会長と応援団幹部が並び、次々に気合のかかった説教をし、数名の者が吊し上げられた。またK教頭先生の留任運動をし、知事公舎に直訴したが説得されたこともあった。

 昭和11(1936)年、楢山から手形に移るときは、各自が自分の机椅子を抱えながら延々長蛇の列をなした。

 「居は気を移す」の通り、真新しく木の香の高い新校舎は、さすがに快適で勉強へのファイトも湧いた。

 翌昭和12(1937)年、新校舎での事実上の最上級生として、永い母校の歴史と伝統を継承し、翌年3月巣立った。

 以上在学中の思い出をのべてみたが、多感な青春の一時期をよい師よい友とめぐり会い、心ゆくまで交歓できたことを幸せに思うものである。 

菅原 繁雄 (S13卒)