文武両道…若かりし日々 (7)

文芸部

2014年09月01日更新

文芸部出帆!

井上 隆明(昭和25卒)

 ながい療養をへて、私は昭和19年旧制秋田中学に入学。戦時ゆえ希望軍隊校を問われ、軍楽隊学校と記し、音楽部(ブラバン。顧問小田島樹人先生)へ。やがて上級は県内外軍需工場に勤労動員。1年は開墾、蛸壺掘り(人が潜む)など。授業は縮小され軍事教練も。国防(カーキ)色の戦闘帽・脚絆(ゲートル)の服装だ。

 20年夏終戦。手形校舎は米軍接収後、失火焼失、生徒は転々。クラスに戦没者遺児(私も)、疎開・戦災・引揚げ者が増し、敗戦国の混乱と貧窮がつづく。上級の武田清、細田全、小松元也(以下敬称略)と、小さな同人誌「赤んぼ」を出す。

 22年、旧制4年(学制改革で翌年新制高校2年。戦時入学者は当時の学則で4年卒、また戦前法に戻り5年卒、新制になり高3卒と、3度卒業機会があった)。先輩3人は卒業進学。少しずつ世情安定、学内に部づくり活発化。1年上の藤田幸雄を知り、文芸部発足を図る。誘いのビラ効果あって才子続々(氏名挙げたいが紙数不足)。校舎は旧秋田部隊兵舎に移り、その一室をえて週2回ほど文学論や用語テスト(赤い鳥・俳諧・中原中也・団菊左など)。終わってぞろぞろ古本屋めぐりして講釈……部誌発行の機運が高まっていた。



創刊号目次

 畏敬してやまぬ伊藤裕(ひろし)先生(国語・篤胤研究家)に補助を願ってみた。いくどか足をはこび、やっと許可。ただし、他部との合同誌に、の条件付きだった。さっそく1級上の講演部、科学部の幹部と相談し明春刊に決定、誌名は伊藤先生らしく「琢磨」が選ばれる。

 23年、学制改革で新制高校2年。6月23日、「琢磨」創刊。1年上の藤森光生が表紙絵。印刷は名人芸の宮腰謄写堂。B5判32ページ。皆感動のおももち。じつは私は内職(アルバイトの語はまだなし)に追われ、睡眠不足で遅刻常習になる。本代稼ぎに隔日になるが興信所の「映画通信」リライターと、進駐軍私邸の風呂焚きだった。読書と内職に「琢磨」が加わり、さらに多用の身。進学は理数ナシの私大文学部、しかも国語系でなく小説系を選んでいた。

 さて快挙、もう一つ。「琢磨」創刊日が、学園文化祭開催の日でもあった。同祭は前年からで、愉快な赤ッ面教師が動員先に登場、モデルを匂わせる芝居が大うけ。今回の呼び物は文芸部総出演、沙翁四大悲劇の一「マクベス」だ。台本と演出の私は、演技よりも台詞一くさりや、西洋古典劇の風骨を体感し、部員が新しい自分に気づくならば本望だった。

 幕あきの演出に凝った。荒野で魔女3人が、ぐらぐら煮たつ大鍋をかき回し、予言をはく妖しい場面だ。火は電球を赤いセロハン紙で被い、七輪で杉の葉をいぶして煙を流し、魔女のキリキリ声で開幕。観客席がおうッとどよめく。成功! その夜校舎前のお宮を借りきっての大宴(うたげ)。ドンタク(蘭語で日曜→無礼講)と称したが、詳しくは略。宴おさめ、勢いづいて広小路に飛び出し、お濠ヘドブーン、遊泳。若い体力だった。

 冬が近づく11月28日、前回の好評をうけ再び文化祭を開催した。今回も文芸部は大作で、ゴーリキー「どん底」にいどむ。どんづまりの人生は悲劇を通りこして喜劇か? と進行。細民窟の場にぐるりと、白い越中褌を掛けて風に靡かせ、観客を笑わしてみた。夜、ドンタクを楽しむ。

 24年、私は高3.最終学年は部を去るべきだが、「琢磨」編集に努めたかった。季刊なみに2年間で8冊刊。拙作を毎号寄せたがなお足りず、筆名も用いた。予算不足は広告で補う。「映画通信」の顧客が協力してくれた(8冊は母校に寄贈)。当時、私は金子光晴の詩「蛾」に、胸をつかれた。

   蛾よ、なにごとのいのちぞ。

 わずか半行。あの貌あの肢体、鱗粉をアップ、たぐりよせ、どうしようもない宿命を捉えた凝縮力よ。これまで覚えた表現法すべてを、私はかなぐり捨てるべきだった。秀作「和泉式部」の作家森三千代夫君と知り、私は自作をそえ、感懐をお二人に書かずにはおけなかった。そして、人間大劇場の東京への思いが、日ごと私の内に膨らむ。さらば下駄足駄、マントよ。

 さて今時。10年前までは名画挿入歌をかりると、よくあの人はどこに(ウ・エティル・ドンク)(仏・望郷)を口ずさんだ。近年はただ一度(ダス・ギプツ・ヌーア・アインマル)(独・会議は踊る)に変わる。先輩知友、きれいに姿を消しはじめた。あの凄まじい時代、確かに誰もが青春の凶器を、ひそかに一閃させたはず。ただ一度だけ、に。

井上 隆明 (S25卒)

井上 隆明いのうえ たかあき さん (S25) プロフィール

昭和5年鹿角市毛馬内生まれ。本籍上州尾瀬麓。父の転勤に従い、秋田・山形を転々。早大第一文学部文学科卒、小説方法史専攻。傍ら金子光晴、八木義徳らに師事。秋田魁新報記者、秋田経済法科大学学長。学位、著作、賞略。