佐々木 駒之助 (ささきこまのすけ)

最後の東洋拓殖株式会社総裁

2014年01月10日更新

強い向学心

 佐々木駒之助は、明治六年(一八七三)七月六日、仙北郡大曲町の隣接村、戦後合併して大曲市となった花館村の素封家、佐々木多右衛門の三男に生まれたが、叔父佐々木福蔵の養子となってそのあとを継いだ。

 佐々木家は大地主であるが、酒造、馬産、養蚕業など、代々産業の開発に勤しんで、常に屋台骨をゆるぎないものにしていた。

 由緒正しくまた産業一意の堅実な家庭に育った佐々木の小学校の成績は抜群であったので本人は強く進学を希望したが、当時、中学校は秋田中学一校があるに過ぎず、交通の便も悪かったので親はなかなか許してくれない。

 それでも進学を諦められない佐々木は、祖父に泣きついてようやく明治二十一年に秋田中学に入学させてもらえたのであった。同級生には、二木謙三、森田資孝の両医学博士がおり、在学中は、後に秋田大学創設の立役者となる池田謙三の父親である孫一の世話になって下宿生活をしている。

 明治二十六年に秋田中学を卒業した佐々木は、さらに上の学校に進みたいとの希望をもっていたが、中学進学すら反対した両親はなかなか承知しない。

 そうこうしているうちに、医者になるなら学資を出してもよいという親戚の者が現れ、その支援を受けて官立第二高等学校(東北大学教養部の前身)に進学する。佐々木は仙岩峠の難所を徒歩で越え、盛岡から汽車に乗って仙台に向かった。

 ところが、在学半年ほどで栄養失調から脚気をわずらって帰郷、療養一意の日々を過ごす。

 半年ほどで快癒した佐々木は、今度は東京の医学校に入学すると称して上京するが、もともと医学部志望ではなかったから、実際は慶応義塾の理財科(現経済学部)に入学し、三十二年にそこを卒業した。塾長の福沢諭吉がまだ健在で、佐々木も直接福沢の薫陶を受けた。

町田忠治の紹介で経済界へ

 慶応卒業後、佐々木は福沢の勧めで戦前の日本経済の中心地であった大阪に赴き、堺にある敷物関係の会社の貿易部門に一年間だけ勤めた後、秋田中学の先輩で、当時、総番頭をしていた町田忠治の紹介で三十三年四月に山口銀行に入行する。同行は、大阪財閥の一つ、山口吉郎兵衛家の経営する銀行である。

 佐々木の能力を見抜いた町田は、間もなく佐々木を理事に登用するとともに、孝子夫人の東京女子師範学校の後輩を佐々木に紹介して結婚させた。

 経営不振に陥っていた山口銀行の建て直しのために招聘されて十年、銀行の経営が安定した軌道に乗ったことを確認した町田は、後事をすべて佐々木に託し、みずからは新たに政界に進出すべく大阪を去って行った。

 先輩から一切を任された佐々木は、まず大正六年(一九一七)山口銀行を株式会社組織にしてみずから常務取締役に就任、さらに九年には山口家そのものを合資会社組織にして、これまた理事から理事長となり、山口銀行と山口家の総番頭格として経営の腕を振るった。

 その間、大正八年には欧米の経済事情の視察に出かけ、ほぼ一年をかけて海外の事情を調査研究するとともに、国際的な経済感覚も養ってきている。

 昭和八年(一九三三)十二月、時勢の流れに沿って株式会社三十四銀行、同鴻ノ池銀行と山口銀行の三行合併問題が具体化し、三和銀行(現UFJ銀行)が誕生した。日本銀行から頭取を迎えた佐々木は自分を平頭取として第一線を退くが、実質は依然として佐々木が責任をもって取り仕切っていた。

日本経済界の重鎮

 この時期の佐々木は、多くの企業や団体の役職に就いて寧日ない状態であったが、試みにその幾つかを列挙してみる。

 日本生命保険会社会長、共同火災保険会社会長、東洋リノリウム会社会長、大阪貯蓄銀行(現りそな銀行)取締役、関西信託会社(現UFJ信託)取締役、トヨタ自動車工業監査役、新大阪ホテル監査役、財団法人大阪癌協会理事、同阪神産業化学研究会理事、同日満実業協会理事等々である。

 この他にも国策会社である東北振興電力株式会社、南方開発金庫などの設立委員も務め、単に関西財界のみならず、日本の国策会社や南方開発にまでその視野と影響力は及んでいるのである。

 多忙を極めるなか、昭和十三年には八ヵ月にわたる二度目の欧米経済事情視察に赴いているから、その行動力には驚くしかない。

 なお、このときは『一九三八年の欧米』と題した本文五百五十ページ、付録としてゴルフ行脚、旅程等を添えた著書まで出版している。ゴルフは囲碁とならぶ佐々木の趣味であった。

 この著書は、今も、当時の欧米事情を知る貴重な文献の一つになっているとのことである。

 佐々木で忘れることのできないのは、なんと言っても、東洋拓殖株式会社の総裁として大いなる手腕を発揮したことである。

 この国策会社は、明治四十三年に併合した朝鮮の開発を目的として設立されたもので、佐々木は昭和十四年五月、六十五歳のときにそこの総裁に任じられ、十九年五月に再任されて、二十年八月の終戦まで、六年余りにわたってこの要職を務めたことになる。結果的に、最後の総裁になった。

 当時の拓殖対策は、佐々木の就任した東洋拓殖に限らず、政治家、事業家、政治浪人等にまどわされるところが多く、最高責任者の総裁ともなれば常にそうした人種の出現に悩まされたという。

 特に、戦時に入ってからは軍部の強圧を受け、佐々木も手を焼いたようだが、英国流の紳士であった彼は、温厚篤実、常に温顔をもって相手に接したので、風当たりも多少は和らいだらしい。

 しかし、表面のやわらかさとは別に佐々木はきわめて芯が強く、一度こうと決意したら容易には変えない硬骨漢であった。こうした点は独立自尊を唱えた福沢諭吉から直接教えを受けたことが生きているのだろう。

 いかなる弾圧や強要に対しても決してひるむことなく、時には穏やかにこれを避け、時には円滑に拒否して、あくまで自分の信念に基づいて行動した。

 こうした態度、能力、人柄が評価され、昭和二十年には貴族院勅選議員に任じられる栄誉に浴している。

 日本経済界の重鎮として多忙な毎日を送っている佐々木ではあったが、ふるさと秋田に対する思いは人一倍のものがあったようである。

 折をみては帰郷しているが、大正十二年に帰秋の際は、母校である秋田中学に武道室建設の話があるのを仄聞(そくぶん)して一万円(現在の金額にすると約二千万円)という大金を寄付している。

 また、昭和十七年、東洋拓殖総裁時代に、町田忠治、山下太郎、水野錬太郎などの秋田県出身者や、後に国鉄総裁に就任した長崎惣之助など〈十人会〉の一行とともに帰秋し、雄物川下流改修後の秋田港を中心とする県都の発展について、すこぶる示唆に富んだ発言をしている。

 昭和二十年八月十五日の敗戦とともに、東洋拓殖株式会社も進駐軍によって解体され、貴族院も憲法改正により二十一年四月には廃止となる。佐々木が命がけで取り組んできたことがすべて烏有に帰すのである。

 上手に立ち回るようなことを潔しとしなかった佐々木は、二十一年八月から二十八年八月までの五年間、占領軍の追放命令によって兵庫県伊丹市で寂しい日々を送る。

 佐々木は、その間の事情については黙して語らないが、過去の栄光が大きかっただけに、思うところもまた多かったに違いない。

 昭和二十九年八月二目、佐々木は起伏に富んだ生涯を静かに終えた。八十歳であった。

柴山 芳隆 (S36卒)