わが青春…学びやと共に (3)

手形、帝石、駅前校舎

2014年09月01日更新

終戦直後の校舎受難記

佐々木研吾(昭和26卒)

手形(深田)校舎の接収、焼失、石油学校への移転

 私が秋田中学校に入学したのは、先の大戦末期の昭和20年4月であった。その後、戦後の学制改革により新制高校へと移行(秋田南高等学校)し、26年3月に卒業するまでの6年間、在学した。入学当時の校舎は、手形字深田(現在の手形学園町、秋田大学教育文化学部の敷地)にあり、木造ながら堂々たる校舎であった。

 同年8月15日終戦、9月2日に降伏文書調印。早くも9月14日には進駐軍先遣隊が秋田市に到着、翌15日、2名の将校が視察に来校、17日には、県知事を通じて、進駐軍から「校舎全部を兵舎に充当するため9月19日午前9時までに明け渡せ」との命令を受けた。そこで玉木正行校長は、知事から提案された仮校舎の候補を実地調査した結果、秋田市将軍野の帝国石油(株)鉱手養成所(通称、石油学校)を借用することを決定した。そこで、24日、25日の両日、全校職員、生徒挙(こぞ)って学習机をはじめ必要最小限の校具を搬入した。この搬送の日、折からの激しい風雨の中で、体力乏しい中学生が、手形から泉、神田を経由して将軍野まで、難渋しつつも学習机(椅子がつながったもの)などを担いで、徒歩で搬送したのであった。こうして仮校舎で26日から2学期の授業を再開することができた。しかし、仮校舎は市内中心部から遠く、連絡する市営電車(新大工町―将軍野―土崎)の輸送力も極めて貧弱であったため、旧市内への復帰が急がれた。このため、旧市内の建物を探したが適当なものがなく、結局、旧陸軍の兵舎(第8師団歩兵第17聯隊)を転用するほかなしとの結論にいたり、進駐軍の了解を得て改造工事に取りかかった。

 この間、12月5日払暁、進駐軍に接収された校舎が全焼、進駐軍に貸与した机、椅子や倉庫に残置した校具を含め、一切が烏有(うゆう)に帰した。

国民学校で午後授業 

 明けて昭和21年、3学期の授業を開始するに当たり、進駐軍に対して旧兵舎の教室転用を再三懇請したが、認められなかった。そこでやむなく市内の国民学校を借りて、2月12日から、学年ごとに分散して午後に短縮授業(1校時40分・1日4校時、4年明徳・3年牛島・2年築山・1年中通の各国民学校)が実施された。なお、20年度の卒業式は明徳国民学校、21年度の入学式は中通国民学校で挙行、新1年生の授業は旭南国民学校で受けざるを得なかった。

旧兵舎での苦難の日々 

 昭和21年4月9日にいたり、ようやく県を通じて進駐軍の旧兵舎使用の許可が得られ、5月1日に移転、2日から授業が開始された。

 その旧兵舎は、現在の秋田市中通2丁目から同4丁目の辺りにかけて広大な敷地を占め、現在のアトリオンの辺りの広小路に面して営門があった。営門を入ると、北から南に向かって東西に長い6棟の兵舎があり、このうち奥の第4棟と第6棟を教室として使用することとなった(第5棟は解体)。このほか、旧医務室を学校本部、旧馬小屋を講堂・雨天体操場、旧練兵場を屋外運動場にそれぞれ代用した。現在の市民市場の辺り一帯ということになろうか。旧兵舎は、堅牢な構造ではあったが、極めて使い勝手の悪いものであった。部屋割りが長方形で授業の声も通りにくく、また採光が悪くて薄暗く、廊下を挟んで北側の教室はとくに暗かった。戸板や窓ガラスの破損も多く、そこから寒風が容赦なく吹き込んだ。何よりも極めて不潔で、旧軍隊の置き土産ともいうべき南京虫が頻繁に出没するのには閉口した。

 この仮校舎からの復興の動きは、早くも21年度後半から具体化した。すなわち、中川秀松校長(21年10月就任)を中心に、学校、父兄会(のちにPTA)、同窓会の3者で、22年3月「秋中復興促進同盟」を結成し、関係方面に働きかけた。県当局も積極的に対応し、23年2月に本館(学校本部と7教室)、同年12月に講堂・雨天体操場(第5棟跡)、25年1月に普通教室(16教室、第4棟跡)、26年3月に特別教室(第6棟跡)が相次いで竣工し、ここに復興完成。37年3月、手形字中台の現校舎に移転するまで存続した。

 このように、終戦直後の母校は未曾有の校舎難に陥り、在校生は極めて劣悪な環境下に置かれたが、これにめげることなく勉学に運動にいそしみ、卒業後、各界に有為の人材を多数輩出したことを誇りに思っている次第である。

参考資料

玉木正行「校舎難の顛末」(羽城 復刊第1号)
     中川秀松「本校復興に関して」
               (羽城 復刊第1号、第2号)

佐々木 研吾 (S26卒)

佐々木 研吾ささき けんご さん (S26) プロフィール

秋田市土崎港出身。昭和26年3月卒業。
同年4月日本銀行入行。小樽支店業務課長、業務管理部・外国局・調査統計局各調査役、盛岡事務所長等を歴任、平成5年8月退職。現在八王子市に在住、地域奉仕活動に従事。