東日本大震災 (1)

2014年09月01日更新

私を困難に立ち向かわせたもの

石田 秀一 (昭和37卒)

 私の病院は、石巻市旧北上川河口より2km上流にあり、川岸からわずか30mしか離れていない5階建ての病院である。東京に本部がある健育会グループが経営している病院で、グループは東海地方から北海道まで広域に病院や老健施設を運営している。当病院は一般床、回復期リハビリ病棟、療養病棟を有する135床の慢性期病院で、意識のない人、寝たきりの人などを含め何らかの医療を必要としていて、家に帰りたくても帰れない人たちが入院している。当然高齢者の方が多く、リハビリ病棟に入院している人をのぞけば、この病院を終の住み家ととらえている人たちがたくさんいるということである。

 平成23年3月11日午後2時46分。突然大地震が襲った。その時私は、極めて海に近い患者宅へ往診に出かけていた。そこで地震に遭い大津波警報の中をやっとの思いで病院に戻ることが出来た。往診した患者さんは津波で亡くなったことを後で知った。今考えるとよく生還したと思う。


津波被害を受けた石巻港湾病院前の惨状(平成23年3月)

 病院に到着後、5分後には津波の第1波が到達し、次々と襲う津波で1階部分は壊され、大切な医療機器、カルテ類が奪われてしまった。既にエレベーターは使えず、2階3階の入院患者を人力で避難させた。電気、水道、ガスが断たれ、その日の午後10時過ぎには通信も途絶えた。職員、患者の無事は本部に伝えてあったが、その後3日間は音信不通となった。ラジオ放送と懐中電灯の明かりが頼りであった。

 劣悪な環境の中で患者と職員の籠城生活が始まった。入院患者の家族、外来患者がそのまま避難していたから、病院というより避難所であった。一晩で病院から水が引いたので、倉庫に残っていた水と食料を調達でき、流されないで残っていた医薬品も確保できた。患者さんには水と1日2食の食事しか用意できない。一生懸命やっているのだが、毎日のように亡くなる人がでてきた。

 職員はというと、自分の家族の安否もわからず、家の被害状況もわからないまま働いていた。日頃地域の人たちに豊かな医療を提供するために努力している。責任感であろう。正に、チーム医療であった。非番の看護師2人を亡くした。地震後、車で病院に向かって津波にのみこまれたのである。これから病院に向かうと母親に携帯で告げたのが最後となった。私はこういう職員とともに働いていることを誇りに思うし、この病院を守らなければと心に誓った。

 3日目の夜に石巻から仙台に向かい、本部と連絡がとれた。
その時本部では既に動き出していて、翌日の夜には、暖房器具、ガスコンロ、食料など救援物資が届いた。その後も続々と届きはじめ、女性の下着のはてまで送られてきた。7日目からは医師を含めた応援部隊も東京から駆けつけてきた。おかげで職員を交代で休ませることが出来た。

 どうしてこのような援助が素早くできたか。健育会の組織力がしっかりしていたからと思う。こういう広域にまたがる災害時には広域にまたがるグループが力を発揮する。近い距離ではお互いに被災しているため連携はできない。できたとしても充分機能しないであろう。救援を求めて市役所に出かけても、援助どころではなく、そちらはそちらでやってくれと言われた。早い支援のお蔭ですぐに立ち上がることができた。4月11日には検査機器もそろい、外来を開始することが出来た。職員の頑張りと本部の援助に感謝している。

 もう一つ大きな力を忘れることはできない。私の友人たちである。小学校、中学校の同級生、高校、大学時代の友人、クラブ仲間からたくさんの励ましの言葉や支援をいただいた。一緒に働いた先生、なけなしの食料を置いていった若い研修医もいた。お互いに被災者なのに。そこで頑張るのが天命だという言葉に勇気づけられた。そして家族の協力があったからこそ生き延びられた。どんなことがあっても、人と人のつながりがあるうちは大丈夫だろうと思う。

 私を困難に立ち向かわせたもの、それはゆるぎないリーダーシップのもとに、心を一つにした職員の頑張り、迅速に支援してくれた本部の組織力、友人達の温かい励ましと私を支えてくれた家族の絆である。言葉に表わせない感謝の気持ちで一杯だ。
ありがとうございました。

 当院は平成23年8月1日、完全復旧をとげた。

石田 秀一 (S37卒)