安倍 仲雄 (あべなかお)

秋田県最初の医学博士

2014年01月31日更新

学位取得

 明治十年(一八七七)八月一日、北秋田郡森吉町(旧阿仁前田村)で医業を営む安倍家に待望の長男が誕生し、仲雄と命名された。

 父の全葊(ぜんあん)も医者だが、仲雄は、曾祖父にあたる安倍斎太が特に印象深かったらしく、斎太翁自筆の掛け軸をいつも大事にし、折をみては自分の子ども達に翁の生涯を語って聞かせていたということである。

 地元の小学校で学んだ後、一年間だけ秋田師範学校附属小学校(秋田大学教育文化学部附属小学校の前身)に通ってそれを受験準備期間とした仲雄は、二十四年にあこがれの秋田中学に入学し、二十九年に卒業した。

 卒業と同時に官立第四高等学校(後に金沢大学に統合)に進み、三十二年にそこを出ると京都帝国大学医学部に進学して三十七年に卒業、さらに大学院を経て、三十九年に同大学の助手に就任した。

 その後、一時京都市の衛生課に勤務するが、四十二年九月には招かれて満州に渡り、南満州鉄道株式会社(満鉄)大連病院の医長に就任する。

 この間も大学入学時以来の研究を怠らず、四十三年四月二十日付けで学位(第五二五号)を授与されている。秋田県出身者として最初の医学博士の誕生である。

 学位取得のために提出されたのは主論文七編と参考論文五編だが、主論文の題目だけ紹介しておきたい。

 一、赤痢ノ原因二就テ ニ、伝染性膿胞疹二就テ 三、チフス患者併二看護人二寄生スる蚤虱二於ケルチフス桿菌ノ証明二就テ 四、日本浴の細菌学的検査 五、化膿性眼球炎ノ原因二関スル動物試験 六、咯痰中二於ケル結核菌ノ証明 七、淋球菌ノ簡易栽培法二就テ

 満州から帰った安倍が、三年間にわたる洋行に出発したのは四十五年八月である。横浜を出港してまずアメリカに渡り、幾つかの州で医事衛生状況を視察の後、九月十一日からワシントンで開催された第十四回万国衛生及び民勢学会に出席し、第二十七代の大統領タフトにも謁見している。

 その後イギリスに渡ってロンドンの医事衛生状態を視察、さらに十一月末にはドイツに赴いて滞在する。

 ドイツでは、ベルリン医科大学第三内科に籍を置き、ゴールト・シャイデル博士からは一般内科学特に脳脊髄病について、ブリーガー博士からは理学的療法及び水治療法について集中的に指導を受けながら研究に従事、その一方で、市内ウィルヒョウ病院のラキューア博士からは理学的療法及び水治療法の実際、レビー・ドルン博士からは光線療法の実際についてそれぞれ具体的に手ほどきを受けた。

 その間、夏期休暇中には、オランダ、ベルギー、フランス、スウェーデン、イタリア、オーストリア、ハンガリーなどを訪問して、精力的に医事衛生状況を視察している。

 マルセーユから乗船した安倍が日本に帰ってきたのは大正三年(一九一四)二月であった。

秋田市で開業

 秋田市に腰を据えることにした安倍は、同年五月二十七日、市内中通(旧西根小屋町)に安倍内科医院を開業する。医院は木造二階建ての洋風の建物で、博士号を有する開業医は県内では初めてであった。

 開業医として忙しく立ち働くかたわら、洋行帰りの医学博士安倍はたちまち名士となってさまざまな分野から声がかかる。

 もっとも多いのはもちろん医学関係で、日本微生物学会評議員、大日本医師会代議員、関東東北医師会常務委員などから始まり、みずからその設立に尽力した秋田県医学会の理事ならびに理事長、さらに、秋田県及び秋田市の医師会に関しては理事、幹事、評議員、代議員などを切れ目なく務めており、このうち、大正十一年から昭和三年(一九二八)までは秋田市医師会の会長に推されている。

 秋田中学の校医に就任したのは昭和三年からだが、母校に対する安倍の思いは深く、毎日放課後には、トラホームに罹っている生徒たちの洗眼のために看護婦二人が学校に派遣されていたという。

 医学関係以外では、県社会事業調査委員、市学務委員、市社会事業調査委員、市職業紹介所委員など枚挙にいとまがなく、変わったところでは、講道館秋田有段者会会長、日本武徳会秋田支部常議員、大日本相撲協会後援会秋田支部長といったようなものもある。

 個人的なレベルでも、オペラ歌手三浦環の独唱会であいさつを命じられるとか、東海林太郎(後述)が秋田で公演会を開くときは自宅に招待するといった具合である。

 これらのうち、教育関係の業績が特に大きいと見られたのであろう、昭和五年二月十一日の紀元節に秋田県知事から教育功労者として表彰されている。

県体育協会の初代会長

 安倍が、秋田県体育協会の初代会長であったというのは、知る人ぞ知るという表現がぴったりのようである。

 みずからもスポーツ特に野球が好きで、秋田の早慶戦と言われた秋田中学と秋田商業の試合には必ずのように応援に駆けつけ、ある時など、患者を投げ出して野球見物とは何事か、と秋田魁新報に投書されたこともあるほどの安倍だが、社会体育の必要性や有用性にもきちんとした理解をもっていた。

 秋田県体育協会は大正十二年に発足するが、まず同年三月三日に最初の発起人会が県庁の食堂で開かれた。

 集まったのは、県側から警察部長ら、その他市役所、学校、鉄道、商業会議所、銀行、新聞社など挙県一致の態勢となっている。このとき初めて秋田県体育協会の会則が決定されたが、六章二十一ヵ条で、会員を名誉、特別、普通の三段階に分けている。

 役員構成は、総裁一名、会長一名、副会長二名、顧問、幹事それぞれ若干名をもって組織し、会長と副会長は役員会で決定するが、総裁だけは「秋田県知事を推戴す」となっている。

 四月十五日午後一時、雨上がりの秋田市楢山グランドに全会員が参集して記念すべき発会式を挙行したが、初代総裁に岸本正雄県知事、そして、会長に安倍仲雄が就任したのである。

 その月の二十八日に、協会は三十五名にものぼる顧問を決定したが、県内務部長、第十六旅団長、歩兵十七連隊長、鉱山専門学校長、秋田中学校長(三沢力太郎)、秋田魁新報社主筆(安東和風)、秋田市長、秋田商業会議所会頭など、県内の各種機関や団体を網羅していて壮観である。

 会長の安倍は、こうした大組織の実質的な指導者であり責任者だったのである。

 安倍体協は、発足記念事業として六月十日、秋田県師範学校の校庭において全県オリンピック大会を開催した。参加する者、男女中学校、一般を加えて総勢三百五十名、この日の圧巻は、峰吉川小学校長佐々木三郎指揮による仙北郡峰吉川村青年団の合同体操であったと伝えられている。

 翌十三年十月には第一回明治神宮大会が開かれることになっており、その予選会を秋田、山形、青森の三県合同で五城目の矢場崎運動場で開催している。

 明治神宮大会が始まって全国的に体育熱が高まったが、これに刺激されて本県体育界も、まず十五年二月、秋田市手形山で第一回全県スキー大会を開催したのを手始めに、七月には第一回全県バレー、十月には第一回全県男子中等学校陸上、第一回ラグビー大会と続々とスタートを切り、昭和二年には第一回実業団野球、第一回全県水泳大会、第一回全県女子中等学校陸上大会とこれに続き、体協傘下の各運動団体がほとんど全県的な行事をもつに到った。

 この問、各部ごとの講習会は毎月のように催され、中央の有名人が続々と来秋して、県体協の成長に少なからぬ刺激を与えている。

 その中には、昭和三年に行われた第九回アムステルダムオリンピックで銀メダルを獲得した女子陸上の人見絹枝選手や柔道の嘉納治五郎講道館館長なども含まれており、体協の熱意と活気が今に伝わってくる。

 そうした体協の組織と活動を陰になり日向になりして支えたのが、安倍仲雄その人だったのである。

 昭和十二年九月、その時は副会長に下りていた安倍が、長年務めた体協を勇退するが、安倍はまさしく秋田県体育協会の生みの親でもあり育ての親でもあったと言える。

 安倍が永眠したのは、体協を退いた翌年、つまり昭和十三年二月五日のことで、まだ六十歳であった。

柴山 芳隆 (S36卒)