湯沢 幸吉郎 (ゆざわこうきちろう)

近代国語学に大きな足跡

2014年04月25日更新

日本語への思い

 古典から現代文学まで、国文学の研究を志す人はたくさんいるが、日本語そのものを研究する国語学の研究者となると急に数が少なくなる。

 その国語学の分野で優れた業績を残した湯沢幸吉郎は、明治二十五年(一八九二)五月二日、秋田市広面(旧広山田村)で誕生した。生家は農業を営んでいた。

 広山田村立楢山尋常小学校から秋田中学に進んだ幸吉郎少年は、春夏秋冬、太平の山並みを仰ぎ見ながら元気に通学して勉学に励む。

 明治三十八年、湯沢は、秋田中学を卒業すると同時に、教育者の道を目指して東京高等師範学校(東京文理科大学などと共に筑波大学に統合)国語国文科に進学するが、そこで自身の秋田方言と学友たちの話す言葉の違いの大きさに驚く。それが国語学者、湯沢幸吉郎の出発点であった。

 四十三年に東京高師を卒業した湯沢は富山県立薬学専門学校の助教諭として北陸の地に赴くが、学生時代に抱いた言語と言語研究への思いを絶ちがたく、二年後には東京府立第四高等女学校の教諭に転じて、研究に便利な東京に戻ってくる。

 教師として教壇に立つかたわら、湯沢は東京帝国大学文学部国文学専科に籍を置き、国語学研究の第一人者であった上田萬年博士から直接指導を受ける。

 当時の国語学界は、山田孝雄の奈良時代、平安時代の語法についての研究や大矢透の仮名遣いの歴史についての研究など、平安時代以前の日本語についてはかなり組織的な研究が進んでいた。

室町時代の言語の研究

 しかし、平安時代の言語がどのような経緯を経て現在の囗語になったかをたどる上でもっとも重要であった室町から江戸時代にかけての言語はほとんど調査研究がなされていない状態であった。

 湯沢は、古代語を現代語に橋渡しするこの中世から近世にかけての日本語の研究が自分に課せられた責務であることを自覚し、以後、その研究に没頭していくことになる。

 とは言っても、最初から研究資料がきちんと揃っていたわけではない。あれこれ模索した湯沢は、主として京都五山の学僧が仏典や漢籍を講義したものを筆記した〈抄物〉の語法の整理から始めることにして、単調なその仕事にまず取り組んだ。

 大正四年(一九一五)に東大での勉強を終えた湯沢は、文部省の嘱託として昭和十二年(一九三七)まで「道徳教育に関する調査」を担当し、さらに大正五年「国語に関する調査」を担当しているが、そうした公務のかたわら、抄物研究は不眠不休で行われた。

 抄物の収集と整理は十年余りに及んだが、名利を求めることのない湯沢には適当な発表の機会もない。たまたま、湯沢の研究の貴重なことを知った東大教授橋本進吉が、貴重な研究の埋もれていることを残念に思って湯沢に強くはたらきかけ、そうした経緯を経て、昭和四年十二月、湯沢の『室町時代言語の研究』が公刊されたのであった。

 この著作により、日本人は初めて室町時代の語法を組織的、体系的に認識することが可能になったのであり、その学問的な意義はきわめて大きなものがあった。

 なお、余談だが、現在高等学校以下の学校で扱っている文法は、基本的には橋本進吉博士の理論に基づいて構築された文法論に基づいている。

 『室町時代言語の研究』を公にした湯沢ではあったが、抄物は主に僧侶の講義の筆記録であるから、室町時代の口語全体の姿を伝えるものではない。口語と文語の混交である。

 湯沢は、室町期の口語の全体像を知るために他の資料も広く調査することにし、手始めに、ポルトガル人ハビアンが『平家物語』を当時の口語に訳したうえ、ポルトガル風の口語で書き表して九州天草から出版した『天草本平家物語』を取り上げた。

 九州の地に生まれた書物であるから、京都に生まれた抄物の言語との間に大きな違いがあるのではないかとの予想のもとに研究し、語法のうえでそんなに大きな差異がないことを確認して、昭和三年に「天草本平家物語の語法」として発表した。

 その他、狂言や幸若の詞章の言語などについても研究を進め、その関連の貴重な論文も幾つか発表した。

江戸時代の言語の研究

 室町時代の言語についての組織的な研究を終えた湯沢の研究は、次の時代すなわち江戸時代前期の口語研究へと向かうことになる。

 徳川期に入ると、江戸は日ごとに大都市としての面目を備えていったが、文化の中心は依然として上方にあった。したがって徳川時代前半の標準的な言語は京阪地方の言語であるとみて、湯沢はその言語を明らかにするために、まず近松門左衛門の世話物に見える言語の調査にあたる。

 その結果を昭和七年に「近松物に見える東国方言に就いて」として発表、さらに考察を深め、昭和十一年九月には、七年の歳月を要した研究の成果を『徳川時代言語の研究』として刊行した。江戸時代前期の上方の言語を初めて体系的に世に示したのである。

 古代語から現代語への過渡期の言語については、湯沢の手によってこうして着々とその基礎が確立されていったが、湯沢は、江戸の口語のさらに詳しい研究へと進んでいく。

 この時代になると、人情本、洒落本、滑稽本などの小説類や、歌舞伎、浄瑠璃、落語など口語を伝えていると思われる資料が豊富にあって、その整理だけでも並大抵でないし、どれを江戸言葉と規定するかも容易なことではない。

 湯沢は、江戸の土地に、江戸の町とともに発達し、主として町人の間で行われる言葉を江戸言葉として定義づけ、次はその研究に全力を傾けた。

 しかし、次第に戦争が激しくなり、終戦直後は混乱が続いたこともあって、湯沢の学問も一頓挫を余儀なくされる。湯沢の次なる研究成果を期待していた国語学界も、しばし待機を強いられたのであった。

 昭和二十一年三月、文部省図書監修官を辞して早稲田大学で教鞭を取るようになった湯沢は、すべてが乏しい中で研究につぐ研究を続け、二十三年度と二十四年度には幸いにも文部省の人文科学研究費を受けて研究を進めることができた。

 しかし、二十五年には過労から病に倒れ、ついには床に就かねばならない状態に陥ったが、湯沢は床の中でもなお語彙カードの整理にあたり、研究を途切らせることはなかった。

 二十八年頃になると健康も回復、再び教壇に立てるようになって研究の進み具合も旧に復する。

 二十九年四月にはついに学界待望の『江戸言葉の研究』の刊行にこぎつけ、ここに、日本語の歴史の研究のうえで欠けていた古代語から現代語への橋渡しとしての近代語は、初めて系統的、体系的に整理されたのであった。

 このことは爾後の近代国語の研究に不可欠な基礎研究が確立されたことを意味するもので、近代国語はもちろん、日本語の歴史的な研究はここに豊かに花開くことになった。

 湯沢のこの偉大な功績に対し、三十一年には日本学士院賞が授与された。

 研究一筋、名利を求めない湯沢の人徳を慕って「湯沢幸吉郎を中心とした国語研究会」が結成されたのは昭和二十九年であったが、この会は三十三年に湯沢が早稲田大学教授を定年で退職してからも続けられ、三十七年に「早稲田国語懇話会」と発展的に改称された。

郷土愛と方言研究

 話は大分前後するが、湯沢は大正四年に文部省の嘱託として「国語に関する調査」を担当して以来、方言の調査と研究にも力を尽くしている。

 秋田に生まれ育った湯沢は方言を正すことにも関心を示し、大正十年に「県人の注意すべき語法」を地元新聞に連載したほか、昭和二年には、秋田市を中心とした地域の言語を整理して「語法上から見た秋田方言」を発表している。

 国語学研究の出発点になった自分と学友の言葉の違いが、いつもこころのどこかにあったし、郷土に対する愛着も人一倍強いものがあったのであろう。

 さて、早稲田大学を退いた湯沢は、東京都立大学の講師や上智大学の教授として後進の指導にあたる一方、三十四年には大著『文語文法詳説』を出版するなどして、国語学発展のために尽力し続ける。

 教壇に立つかたわら、主要三著『室町時代言語の研究』『徳川時代言語の研究』『江戸言葉の研究』の増補改訂への努力を傾注していた湯沢は、三十七年の一月頃から次第に身体のだるさを覚えるようになっていた。肺がガンに侵され始めていたのであった。

 国語学界に大きな足跡を残した湯沢が研究一途の七十五歳の生涯を終えたのは、翌昭和三十八年四月九日のことであった。

柴山 芳隆 (S36卒)