河村 重治郎 (かわむらじゅうじろう)

英和辞典づくりの名人

2014年05月09日更新

秋中中退で教授になった鬼才

 戦前から学習英和辞典の名著と謳われた『クラウン英和辞典』(三省堂刊)―その編者が河村重治郎という大家であることは知っていても、その出身地が秋田市楢山と知っていた人は、近親者を除けば殆どいなかったらしい。加えて、彼は秋田中学を五年生の二学期で中退という最終学歴なのに、小・中・高等女学校・師範学校の正教諭免許はもとより、旧制高校・大学予科の教授免許まで全て検定試験で取得した独学力行の鬼才である。

 これらのことを知ったのは、昭和五十八年(一九八三)四月、三省堂刊の田島伸悟著『英語名人河村重治郎』(B5判、225ページ)による。著者の田島(昭和七年生、東京出身)は、長らく三省堂で河村の辞典づくりの助手を務めた碩学である。この一書がなければ、河村のひたむきな情熱と努力に織りなされた狷介孤高の生涯は、歴史の彼方に埋没していたかもしれない。

母の死、中退、上京

 河村重治郎は明治二十年(一八八七)七月二十八日、南秋田郡楢山牛島橋通町五〇(現秋田市楢山共和町三―六 秋田電具商会の地)で、河村豊吉・リヨの長男に生まれた。

 父・豊吉(安政五年生)は、楢山登町、河村嘉右衛門(職業不詳)の二男で、明治十年一九歳の時に牛島橋通町五〇に分家となった。職業は呉服商だったとされる。

 一方、母・リヨ(文久三年生)は隣村の河辺郡牛島村六七(現秋田市)平沢倉松の長女で、生家は裕福な自作農であった。

 ふたりの結婚は明治十八年(一八八五)で豊吉二七歳、リヨニニ歳のこと。そして重治郎をトップに次男豊治(明治二十四年生)、三男三治(明治二十八年生)の三児に恵まれている(戸籍関係資料)。

 重治郎は明治二十七年(一八九四)、秋田市築山小学校に入学した。この小学校は明治十六年(一八八三)、それまでの築地学校と楢山学校が合併して「築山」となったもので、就学率はまだ低かった。

 次いで明治三十三年(一九〇〇)、秋田県第一中学校(現秋田高校)に入学した。だが、三年生になって間もない明治三十五年(一九〇二)五月二日、胸に病のあった母・リヨが三九歳の若さで身罷った。当時、弟の豊次は一一歳、その下の三治はまだ七歳。どうピンチを乗り越えたのか、記録はない。

 それから二年後の明治三十七年(一九〇四)十一月、一家は突然、家を引き払って上京した。この時、重治郎(一七歳)は秋田中学五年生の二学期。あと四ヵ月後の卒業を待てずに退学→上京とは一体、どんな事情があったのか。これは今に至るも判然としない。

秋中四・五年時の優等生

 分からないと言えば、もう一つ、重治郎が秋田中学に在籍した「公的証拠」を探しあぐねたことである。学籍簿は卒業二〇年後に廃棄というから、平成の今は存在する筈がないし、卒業台帳も中退者は対象外。従って、最新の秋田高校同窓会名簿にも彼の名は載っていない。本人自筆の履歴書に依拠するだけでは、物書きの端くれとして如何にも不本意である。さて、どうしたものか。

 だが、案ずるより生むが易しとか。ふと思いついて、重治郎在学当時の刊行物にいろいろ当たってみた。その結果、ついに半ば公的な証拠を見付けた。

 明治三十六年(一九〇三)十月三十一日刊の秋田中学校『校友会誌』第二十四号に「優等生=第四年生(八人)河村重次郎…」とあるほか、重治郎の「処世」と題する寄稿が掲載されていた。

 さらに、翌三十七年(一九〇四)七月十日刊の秋田中学校校友会誌『羽城』第二十六号にも「優等生=五年生(六人)河村重次郎…」とあった。

 これだけ揃えば、学籍簿と同格。重治郎が重次郎となっているのは、単なる誤植とみていいのではあるまいか。母・リヨの生家(平沢家)に伝わる「重治郎は大変な勉強家だった」との話は、秋中四・五年時の優等生という事実によって、あらためて実証された形である。

 彼の英語レベルは当時、どれほどの域に達していただろうか?。生来、寡黙で秋田時代のことを殆ど語ろうとしなかった重治郎が、遥か後年、英和辞典の編纂仲間にふと次のように漏らしたことがあったという。

 「授業中、難しい所にぶつかると、英語の先生が『河村に聞いとけ』なんて言いましたよ」(『英語名人 河村重治郎』による)。だから、卒業目前の中退は、学校ではもはや教わることがなくなって、図書館勉強派に転じたのだ、と周りから見られていたかもしれない。

検定パス、福井中教諭に

 上京した河村一家は、目黒村上目黒三六(現目黒区上目黒一丁目四八)に居を構えた。父・豊吉が何を生業としたのか定かではない。重治郎は専ら独学に励んだ結果、上京翌々年の明治三十九年(一九〇六)七月、検定試験で東京府小学校専科正教貝免許(英語)を取得している(『英語名人 河村重治郎』)。満一九歳を目前にしての快挙だった。

 但し、重治郎がどこかの小学校に奉職した形跡はない。これは単に中等教員試験を受けるための資格取得だったのではないか。なぜなら、中学校中退の最終学歴では、中等教員試験を受験できなかったからである。

 明けて明治四十年(一九〇七)三月、重治郎は文部省施行の検定試験(いわゆる文検)をパスして旧制の師範学校・中学校・高等女学校の英語科教諭免許を得た。時に一九歳と八ヵ月。

 当時、独学者の登竜門は、このレベルまでで、その上の旧制高校・大学予科教授への門は閉ざされたままだった。そこで重治郎はミッションスクールの東京・聖学院中学校(現聖学院高校)の教諭となった。このころ、彼は既に受洗していたし、聖学院中学は創立されたばかりで、古い柵が全くなかったのが大きな魅力であったらしい。

 この聖学院で三年。明治四十四年春、福井県立福井中学校(現藤島高)の英語教諭に転じた。当時の福井中学校長大島英助は、学歴よりも実力を尊重し、教諭陣に文検合格者を多く配したことで知られる人物。重治郎も大島校長のメガネに適ったひとりだった。

 当時のことについて、重治郎は福井中学校同窓誌『明新』に「私がいたころの福中教員室はさながら〈偉人の林〉であった。この林こそ、実に大島校長が自ら全国から集められた名木たちであった」(要旨)との思い出を寄せている。

 重治郎は福井中に赴任した年、東京の「井田たみ」(明治二十二年生)と結婚した。宗教上の絆によるもので、重治郎二四歳、たみ二二歳。夫婦は一男五女に恵まれた。

横浜高商の教授に就任

 重治郎の福井中教諭は、大正十三年春までの十三年間にわたる。教え子たちの評価は最高級だった。その教え子たちの中には石田和外(最高裁長官)、深田久弥(山の作家)、高田博厚(彫刻家)、榊原仟(心臓外科の権威)、中野重治(作家)らの著名人が綺羅星の如く並んでいる(『英語名人 河村重治郎』)。

 福井中学校在職中、重治郎にとって最大の出来事は大正九年(一九二〇)二月、文部省が第一回高等学校教員検定試験を実施したこと。全国から三〇人の俊秀が挑戦し、重治郎はみごと合格者六人のひとりに選ばれた。これで旧制の高校・大学予科教授への道が開かれた(三三歳)。

 だが、福井を動こうとしない彼を、英語教育界はいつまでも放置していなかった。大正十三年春、新設の横浜高等商業学校(現横浜国立大学経済学部)の英語科教授に招かれ、重い腰を上げざるを得なかった(三五歳)。

 重治郎の八六年七ヵ月にわたる人生を通観する時、〝英語名人”としての真価が発揮されるのは、実に横浜高商教授の就任がきっかけであり、それまでに蓄えられていた彼の卓越した学識が次々と大輪の花を咲かせていくのである。教壇に立つ傍ら、「英和辞典づくり人生」は以後、五〇年も続く。

辞典づくり人生五〇年

 英和辞典人生の第一歩は、教授就任後間もなく、東京の研究社が編纂を急いでいた『新英和大辞典』(通称『岡倉英和』)の分担執筆を求められたことに始まる。昭和二年に完成した『岡倉英和』は、昭和七年九月までの五年半に一〇〇版を超える人気で、それまでの他辞典を圧倒した。

 以後、重治郎が手掛けた英和辞典、英語教科書、英語参考書、自習書の類は、改訂版も含めてざっと五〇点にのぼる。

 その中で、英和辞典の傑作が二冊ある。共に三省堂から出版された『学生英和辞典』(昭和十年刊)と『クラウン英和辞典』(十四年刊)で、どちらも重治郎がキャップとなって編纂したものである。

 前者の『学生英和辞典』(中学初年生を対象)は、見出し語数が九、六五〇。出版と同時に指定辞書とする中学が全国で相次ぎ、出版後三年間で一〇〇版を重ねた。

 後者の『クラウン英和辞典』(中学上級生対象)は見出し語が二万八〇〇〇ほど。挿絵の多いのが特色で、一、三八〇ページの中に挿絵が二、五六〇点もあった。出版と同時に空前の評価を受け、戦争の激化で昭和十八年に発行が止まるまでの四年間に、実に二三〇版を数えた。前者がヒットなら、後者は空前絶後の大ホームランであった(『英語名人 河村重治郎』)。

 だが、戦況の悪化―英語教育のストップに伴い、重治郎は昭和十九年、横浜高商を勤続二〇年で辞し、やがて群馬県甘楽郡吉田村の岩井重郎宅(福井中時代の同僚教諭)に疎開した。父・豊吉の訃報(昭和二十年五月、八四歳没)も、疎開先で聞いた。

新クラウン英和もヒット

 戦後、河村一家は帰京し、多摩川園近くにあった自分の家作に住んだ。重治郎は私立善隣外事専門学校教授、明治学院大講師などの一方、戦後の英語ブームで学習書づくりなど相変わらず多忙の日々だった。

 英語名人として最後の仕事は、例の大ホームランの改訂版『新クラウン英和辞典』の刊行だった。昭和二十九年に出したところ、販売部数は年々伸び、昭和四十年には年間六七万冊を超えた。さすが「辞典づくりの名人」と評されただけのことはある。

 晩年、住居を東京から鎌倉の稲村ヶ崎に移した。ここで昭和四十五年十二月、たみ夫人が逝去(八一歳)。それから四年後の昭和四十九年三月十三日、重治郎は内臓癌のため東京・渋谷の病院で八六歳と七ヵ月の生涯を閉じた。

 死の数日前、彼は三人の娘たちを枕元に呼んで、自ら葬儀の指示をした。その際、色紙の表に日本語で辞世 よく生き よく働き よく世に尽くした 河村重治郎と書き、その裏に同じ意味の英文In Memoriam In life I lived well. In work I worked well. To the world I did some well. Jujiro Kawamura と書いた。特に死の前日、酸素吸入の管をはずさせ、「こんなものがあると、話し辛くてしょうがない」と言い、それまで囗にしたことのない子供の頃の秋田の話をした。「中学生の頃、私の綽名はマナコパチパチ、西洋ソロバン」と披露し、みんなを笑わせた。重治郎は子供の頃から瞼を動かす癖があった。

 重治郎には一冊の学術書も、一編の論文もない。それは「私は英語学者ではなく、英語教育者」という信念に基づくものらしい。また、辞書編集の基本は「如何に読み易いか。辞書はひいて見るものではなく、ひいて読むものでなければ…」であり、それも「中学卒業までに辞書がきれいであることは、恥ずかしいことだ」と語っていた(『英語名人 河村重治郎』)。

 死に当たって、無念だったのは昭和十二年(一九三七)八月、長男誠(大正三年生)を心臓衰弱で亡くしたこと。当時、この一人息子は東京帝大医学部四年生で、まだ二三歳の若さだった。また、若き日の上京以来、一度も古里・秋田に帰郷する機会がなかったことも、心残りであったよう。辞世は石に刻まれ、自邸の庭に建立されている。

渡部 誠一郎 (S25卒)