木村 謹治 (きむらきんじ)

ゲーテ研究の権威

2014年05月16日更新

雲を怖がる秀才

 『木村・相良独和辞典』と言えば、懐かしい青春時代の記念品のようなかたちで頭に思い浮かべることのできる人も多いのではなかろうか。

 それまでは九州帝大の片山正雄教授の大辞典が愛用されていたが、これは旧ドイツ活字で三千ページをこす大部であったのに対し、木村・相良の辞典はローマ字で使いやすく、それに価格もずっと安かった。ナチスがローマ字を使用するようになっていたのである。かつてドイツ語を勉強をした人のほとんどの書棚のどこかにはこの辞書が眠っているのではないかと想像される。

 旧版だけでも六十六版という息の長いこの独和辞典の編集者が、ゲーテ研究の権威と讃えられた木村謹治博士である。

 木村は、明治ニ十二年(一八八九)一月二日、南秋田郡五城目町大川(旧南秋田郡大川)の素封家に十人兄弟の三番目三男として生を享けた。

 木村家は学問を大事にし、一族が出した博士の数は五指にあまるが、学問以外でも、実業家や芸術家など、多彩な人材を世に送り出している。

 明治三十二年に大川尋常小学校を卒業した謹治少年は、隣り村の下井河小学校の高等科に進み、その後、大久保小学校、土崎小学校と転じている。それは、教育熱心な父親が尊敬していた大和田楳之助校長の転勤に従って木村も転校したからである。大久保小学校入学以降、木村は大和田家に預けられて、勉強と礼儀作法を厳しくしつけられていたのであった。

 当時の謹治少年は、後年の堂々とした体軀と重厚な雰囲気の木村博士からは想像つかないようなひ弱で色白な子どもであったという。雲を怖がったという話も、少年の繊細な神経を裏づけるエピソードと言えよう。

 秋田中学に入学したのは明治三十五年だが、木村が五年生のとき、斎藤佳三のところでも触れた大ストライキに遇って卒業はしていない。退学処分された後は慶応義塾の普通部に編入学して中学校の課程を終えている。

 秋中時代の木村のあだ名は〈ネツ〉であった。それは、彼が勉強においてもスポーツ(ボート部の舵手として活躍)においても、常に人並み以上の熱意をもって取り組んでいたからだという。正義感あふれる木村の一面をよく表しているニックネームと言えよう。

ゲーテに魅せられて

 木村は、明治四十年に官立第二高等学校(東北大学教養部の前身)に入学するが、そのころから詩をよくし、小説は夏目漱石を愛読、ドイツ文学研究を志した。英語は、秋高の校歌の作詞者である土井晩翠に教わった。

 木村が初めてゲーテに魅せられたのは、二高の二年生のころであったと言われている。ドイツ文学に北方的ロマンを感じ取り、やがて高邁なゲーテ的宇宙に魅了されていったということのようである

 明治四十二年、東京帝国大学ドイツ文学科に入った木村は、二高時代にも増して学問一筋になり、同時に、仏教にも興味をもってストイックになっていく。後年、ゲーテ研究と仏典研究が木村の内部でひとつになっていく萌芽が早くも見てとれるようである。木村にとって、ゲーテは求道の対象のような趣きを呈することになるのである。

 この当時、東京帝大の近くに近角常観の開いた求道学舎があった。東大の哲学科を卒業した近角が、浄土真宗の教義を広めるために建てたものである。

 すでに仙台にあるときから仏教に心引かれていた木村は、求道学舎に通って熱心に近角の話に耳を傾けた。以後、ゲーテ研究とならんで、仏教研究も木村の大きな仕事になっていくことになる。

 特待生であった木村が東大を卒業したのは大正二年(一九一三)の七月だが、首席の成績をおさめたので、田所哲太郎や物部長穂と同じように、恩賜の銀時計を授与された。

 木村が金沢の官立第四高等学校(金沢大学の前身)の教授として赴任したのは、大学を卒業した年の九月である。それから十一年間同地に滞在することになるが、金沢に住んで間もなく結婚した。相手は、木村の妹貞の秋田高等女学校(現秋田北高校)時代の同級生で、岩城町亀田(旧由利郡亀田町)に生まれた加藤春代であった。

 人も羨む美男美女の組み合わせで夫婦仲もよく、四男二女をあげている。

 四高教授時代の最終盤にあたる大正九年末から十二年四月まで、木村は文部省の在外研究員としてドイツに渡る。三年間ベルリン大学で研究に励むが、その中心テーマはゲーテの長編詩劇ファウストで、この研究は木村のその後の学問と人生を決める重要なものとなった。

 一方、ベルリン大学には東洋学科があり、木村はそこで石川啄木をテキストに使いながら日本語の講義もした。短歌を愛好していたことが思いがけない形で役立った格好になる。

 第一次世界大戦直後のベルリンに最初の日本人留学生として滞在した木村は、敗戦国の猛烈なインフレを身をもって体験した。朝と夕方で物価が倍になるのも珍しくなく、マルク紙幣は紙屑同然であった。

 しかし、マルクが下落すればするほど、相対的に円の価値は上昇する。木村はその円の力を最大限に利用し、あらゆる種類の文献や書籍を買いあさると同時に、時には生活に苦しむドイツ人の学友に食事をおごったり、現金を与えたりして援助したという。

 帰朝した翌年の大正十三年一月、木村は助教授として東大に迎えられ、学者としての本格的な研究が始まる。

 それまで、日本ではゲーテをギョエテとかゴェテと言ったりしていたが、木村の帰国後、ゲーテという呼び方が定着した。「ギョエテとはおれのことかとゲーテ言い」という川柳が生まれた所以である。

和独辞典

 この当時、日本にはまだ満足な和独辞典がなく、木村はドイツ人ヤーン夫妻の助言も仰ぎながら本格的な和独辞典の編集に着手する。十年余りの歳月を要したこの仕事は『和独大辞典』として結実し、昭和十二年(一九三七)四月に博文館から刊行された。大変すぐれた辞書で、現在でもこれ以上の和独辞典はないとの評価が高い。

 冒頭に引用した『木村・相良独和辞典』もこの『和独大辞典』も非常に権威のある辞書だが、これらの仕事は木村のなかではサイドワーク的なものである。

 辞書編纂作業中の昭和七年三月には教授に昇進し、翌年一月には「若きゲーテ研究」によって文学博士の学位を取得、名実ともにゲーテ研究の最高峰に位置する。

 研究一筋の木村は数多くの論文や著作を発表する一方、学内にドイツ文学会をつくって学生や研究者たちに学問的な刺激を与えた。

 そのかたわらで木村は、たまたま古本屋で出会った青年粉川忠に土曜日を利用してゲーテについて個人教授をするようになり、昭和十五年から二十年までの間に実に二百七十三回、粉川の会社にみずから足を運んで個人的な指導をしている。

 粉川は、昭和三十九年(一九六四)に渋谷の道玄坂に地上七階、地下一階の東京ゲーテ記念館を建設して、ゲーテに対するみずからと恩師木村の思いを形あるものとして残した。

 なお、この記念館は、膨大な書籍や資料で手狭になったため、昭和六十三年に北区の飛鳥山に新築移転している。

 ほとんど信仰の対象と言ってよいくらいにゲーテに打ち込む木村の研究は、国内はもちろん海外でも日増しに評価が高くなり、特にゲーテのふるさとドイツでは、ゲーテ賞のほか、昭和十三年にはアードレル勲章を贈って木村の努力と功績を讃えた。

 戦争の時代に入って学生たちも出陣していくようになると、研究室の多くは閉ざされて顔を見せる教官たちも少なくなり、文学部も火の消えたようにひっそりとしてしまう。しかし、木村は常に変わらずに出勤して机に向かい研究室を守り続けた。

 ドイツに親近感を抱いていた木村には、そのドイツや日本の敗戦が信じられなかった。ひどい挫折感に襲われ、気力も弱りがちであった。

 しかし、ナチス時代にアードレル勲章を受けた故か、ナチスに協力したとの誹謗中傷があがり、GHQに密告して木村を大学から追放しようという策謀さえあった。

 しかし、GHQでは木村をゲーテの純粋な研究者であると認めて、何らの措置も講ずることはなかった。

 そうした俗事に無関心の木村は、黙々として道元の『正法眼蔵』を読み始め、求道的な姿勢がいちだんと顕著になっていく。

 堂々とした体軀と風貌をもった木村は病気らしい病気をしたことがなかった。つねづね、ゲーテと同じ八十三歳まで生きると公言していた。

 しかし、気がつかないうちに木村の心臓は徐々に弱りつつあった。身体の異状を自覚したとき、それはもはや取り返しのつかない状態になっていたのである。

 わずか一週間ほど病床にあっただけで、昭和二十三年一月十三日、六十歳の定年を間際にした木村は、世田谷区桜上水にあった自宅からあわただしげに冥界に旅立っていった。

柴山 芳隆 (S36卒)