石井 漠 (いしいばく)

創作舞踊の大天才

2014年05月30日更新

音楽と国語以外はまるでダメ

 後年、みずから「おどるばか」と称した創作舞踊の天才石井漠は、明治十九年(一八八六)十二月二十五日に誕生し、忠純と命名された。本籍は山本郡山本町(旧下岩川村)である。

 下岩川尋常小学校から森岳尋常小学校の高等科に進み、さらに能代の淳城尋常高等小学校を経て明治三十四年に秋田中学に入学するが、小学校以来のドモリが治らないこともあって英語の成績が極端に悪く、その他の教科も音楽と国語以外はまるでだめといった具合で、一年生の時に一度落第した。

 その後も成績は芳しくなかったが、三年生に進級したところで、斎藤佳三のところで詳述した大ストライキに巻き込まれ、中退を余儀なくされてしまう。石井が音楽や文学に強い興味をもつようになったのはこの前後らしい。

 秋中時代の石井のあだなが、寮生活のひと齣から生まれた「ガモ」であったことは、つとに有名なところである。

 退学後の一時、小坂鉱山で働いた石井は、ニ十二歳になった明治四十二年の春、作曲家志望を胸に秘めて上京、まず大町桂月を訪ね、やはりドモリであった桂月の紹介で、吃音矯正塾である「楽石社」に入ったりしている。

 その後の一時期、仙北郡六郷町出身で『魔風恋風』の作者である小杉天外の書生になるが、程もなく摩擦が生じて小杉のもとを去る。

 石井が、帝国劇場専属管弦楽部員募集の広告を朝日新聞でたまたま目にしたのは、上京した翌年の明治四十三年であった。

 数百人の志願者の中から石井を含め二十四人が採用になり、初めてバイオリンを渡された時は嬉しさでいっぱいであったという。

 帝劇では新たに〈歌劇部〉をつくって研究生を募集したが、そこに応募した石井は、三百人の中から選抜された男性八名、女性七名計十五名の一人になったのであった。この時の試験官は、後の世界的オペラ歌手三浦環と二人の外国人音楽家であった。

 帝国劇場歌劇部第一期生である忠純こと石井林郎の初舞台は、明治四十五年二月、日本初の歌劇「熊野」である。謡曲の「熊野」(ゆや)を歌劇風にアレンジしたもので、石井はセリフのない従者の役であった。

 大正三年(一九一四)九月、石井は歌劇部を卒業して正式に帝劇俳優となる。しかし、石井に目をかけてくれたイタリア人のバレー教師ローシーと配役をめぐって大喧嘩となり、卒業後一年足らずで帝劇を去ることになった。

舞踊詩を標榜

 帝劇を出た石井は、小山内薫、山田耕筰の劇団〈新劇場〉に参加、自身の創作舞踊を「舞踊詩」と名づけて世に問うことになるが、その前途は茫漠としたものであった。石井が林郎をやめて漠を名乗ったのはこのときからである。

 石井によれば、「吾々の生活の中に真実を求めようとするのであるが、創作舞踊すなわち『舞踊詩』は歌詞によらず文学によらず、自らの思想感情をじかに体の動きによって表現する。技巧は詩の言葉に相当するもので、従って錬磨を必要とする。ここでは日本も西洋もない」ということになる。

 舞踊詩というのはどういうものか端的に述べられているが、当時、これを正しく理解した者は残念ながら多くなかったようである。

 大正五年、石井は沢モリノ、天野喜久代らとともに浅草で〈東京オペラ座〉を結成、爆発的な人気を呼び、浅草のオペラブームは一気に頂点に達する。

 このころ、石井は妻八重子と結婚しておでん屋の二階に住むが、そこに谷崎潤一郎、佐藤春夫、今東光などがやって来てにぎやかな日々を過ごしたようである。

 石井は、一日三回の公演による過労と酒がたたって肺浸潤に罹り、大正八年四月から約一年間、千葉市にある県立病院への入院を余儀なくされた。

 病も癒えた大正九年十月、石井は東京オペラ座を率いて北海道巡業に出発し、函館を振り出しに二十日間の興業を打ち、大成功の余勢をかって東海道、関西、北陸と巡業を続けたが、大阪公演中に再び倒れた。胃の幽門狭窄症であった。

 石井は直ちに阿倍野の鳥潟病院に運ばれ、即刻手術を受けて危機を脱するが、執刀した鳥潟隆三博士は、「おそるべき気力だ。あなたの命を救ったのは医学でなくて、あなたの気力です」と語ったと伝えられている。

 鳥潟は、生まれは北海道だが人となったのは秋田県内で、血清細菌学を研究し、「イムぺジン学説」の提唱者として知られている医学者である。

〈日本の漠〉から〈世界の漠〉へ

 さて、国内だけでは飽き足らず、海外公演に夢を馳せる石井は、大正十年に東京オペラ座を解散、翌年十二月四日に神戸港から一路ヨーロッパに向かう。現代舞踊の創始者イサドラ・ダンカンらに対する強い憧れもあった。

 パリを経てベルリンに着くと、そこでは同郷秋田の成田為三が出迎えてくれ、日本大使館には秋田中学後輩の須磨弥吉郎(後述)書記官も勤務していた。

 石井は、毎日新聞社の阿部真之助社会部長の紹介で表現派の画家でピアニストであるエーリッヒ・ワスケに会い、展覧会の招待日に踊らせてもらうが、これが評判になって、ベルリンでも一流のコンサートマネージャーであるジャック・ウント・クラークが次の公演を引き受けてくれるという幸運に恵まれる。

 その公演で石井は、ワスケのスタジオにおいてラフマニノフの曲に乗せて創作した「囚われたる人」「若き牧神と水の精」「明暗」などを踊り、これまた大きな喝采を浴びて、ライプチヒ、ミュンヘン、ドレスデンなどからさらに新たな公演依頼が舞い込んでくるといった具合であった。

 ポーランドやチェコスロヴァキアでも好評を博し、大正十二年九月の関東大震災の報に接しながらの公演となったパリでの舞台も大盛況のうちに終えることができたが、そのことが、当初の予定にはなかったアメリカ直行のきっかけになった。

 アメリカでは、まずニューヨークのカーネギーホールで公演、以後、シカゴ、ロスアンゼルス、サンフランシスコ等でも公演会を催して、石井は今や〈日本の漠〉から〈世界の漠〉へと大きな飛躍を遂げたのであった

 二年余りに及ぶ海外舞踊行脚を終え、石井が春洋丸で横浜に帰って来たのは、大正十四年四月三日のことであった。

 帰朝後、武蔵境に友人の家を借りて百平方メートルほどの石井漠舞踊研究所を設立するが、やがて東横線の九品仏駅付近の辺鄙なところに千六百平方メートル余りの土地を借り受けて研究所を移転、周辺の土地を勝手に自由ヶ丘と命名した。

 これに同調して東横側では、九品仏の駅名を隣の駅に移して自由ヶ丘駅と改称したほか、東京都でも旧町名を目黒区自由ヶ丘に変更して現在に至っている。

 昭和五年、石井漠舞踊学校が開設されるが、講師には文学、語学、音楽、生理学などの専門家を揃えて充実した指導態勢がとられ、ここから和井内恭子や石井の娘のカンナなど多くの逸材が育っていくことになる。

 一方で石井は、『舞踊芸術』『舞踊の本質とその創作法』『石井式舞踊体操』『私の舞踊体操』など、十一冊の著書を後に続く者たちのために残している。

 石井が、宿痾となる眼疾で慶応病院に入院したのは昭和三年(一九二八)の秋である。虹彩炎であった。ほとんど失明に近くなったり多少は見えるようになったりと一進一退の状態を繰り返す。

 そうしたなか、石井は当局の命令を受けて、ソ満国境から中国、朝鮮、仏印まで、前後二ヵ月五十七回の慰問公演を実施しているが、その間、青島病院慰問の際に交通事故に遇い、乗用車の助手席に乗っていた石井は顔面に重傷を負って十八針も縫ったりした。全快後も頬と鼻には傷あとが残った。

最高傑作「人間釈迦」

 太平洋戦争も末期の昭和二十年四月、大空襲によって自由ヶ丘一帯は焼け野原となり、石井の舞踊学校も焼失、一からの出直しを強要された。

 二十二年秋に三度目のスタジオが完成するが、二十四年十一月に不注意で右目を完全に失明してしまう。残った左目も虹彩炎で薄明状態にあり、ほとんど盲人に近くなる。重傷の慢性甲状腺炎にも侵されていた。

 しかし、舞踊に対する石井の情熱は少しも衰えない。

 二十五年には、長男の歓の作曲に石井が振り付けた「スフインクスの謎」が文部大臣賞を受賞した。

 その三年後、日比谷公会堂で初演された「人間釈迦」は、石井の最高傑作として高い評価を受ける。

 インドの貴族の家に生まれ、栄華をほしいままにしながら愛欲の煩悩に悩んで出家、苦しい修行のすえ解脱して光明の世界に到るという釈迦の生涯をイメージして石井が創作した三幕の舞踊劇である。

 新時代の解釈にもとづいて、人間としての釈迦の本質に迫り、しかもそれをバレーの形で表現するという、未だかつて誰も試みたことのない宏遠で壮大な芸術を完成したのであった。

 観客の反応は大変なものがあり、二十八年十一月の初公演以来、実に二百数十回の上演を記録している。

 「人間釈迦」は二十九年に芸術祭賞(文部大臣表彰)を受賞し、翌三十年には、石井のこれまでの芸術活動全体に対して、記念すべき第一回の紫綬褒章が授与された。

 舞踊を通して東洋と西洋の架け橋になった天才も甲状腺のガンには勝てず、昭和三十七年一月七日、石井はその波瀾に富んだ生涯に幕を引いた。七十五歳であった。

 没後直ちに、勲四等瑞宝章が追敍された。

柴山 芳隆 (S36卒)