須磨 弥吉郎 (すまやきちろう)

「日本人スマ」世界の外交官

2014年07月04日更新

政治家への夢

 明治二十五年(一八九二)に秋田市土崎港(旧南秋田郡土崎新城町)で生まれた須磨弥吉郎が、特待生として入学した秋田中学を卒業したのは明治四十四年である。同級生に、後に秋田県知事となった池田徳治がいた。

 後年、昭和十五年(一九四〇)の六月八日、須磨は母校で講演しているが、その中で、秋中に通学していたころの自身を振り返って次のように述べている。

 私は土崎から一里半の道を、雨の日も風の日も歩いて通いました。その時いつも目についたのが 鳥海山であり、太平山でした。この二つの山がいかにもどっしりと線が太く、天をつくばかりに立っている。この印象は、私の一生涯消えないものであります。(中略)秋田は強い線の張りのある、どっしりとしたところです。これから万事をやってゆくべき人には恰好なところであります。(『秋高百年史』)

 秋田中学卒業後、須磨は、秋田県知事の推薦で大正二年(一九一三)に官立広島高等師範学校(広島文理科大学などと共に広島大学に統合)に進み、英語を修めることになる。この広島高等師範在学中に、妻となった山田はな(華)との出会いがあった。

 はな夫人は、長野県下諏訪に生まれ、東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)を出た才媛で、須磨より七歳年長であった。

 大正五年一月、須磨は広島高師を中退して上京するが、時の校長は須磨に対して、「教育者を養成するための学校で政治家を志すのは怪しからぬ」と申し渡したと伝えられている。しかし、政治家になることは、須磨の少年時代からの夢であった。

 はな夫人とともに東京に出た須磨は、同年九月中央大学英法学科に入学し、翌年にはさらに東京帝国大学文学部英文学科の選科生にもなる。

 戦前、帝国大学は、旧制高等学校、帝国大学予科(北海道、京都、台北)および同等の資格試験を通った者しか正規の学生と認めなかった。選科というのは、正規の学生ではない聴講生の入学を許可する制度であった。

 大正七年十月、須磨は高等文官試験行政科に合格するが、家庭では、後に東大法学部を卒業して名外交官となった長男未千秋が誕生して、二重の喜びに包まれた。

 高文試験に合格したことを契機に須磨は、翌年二月に東大選科を退学するが、中央大学の方は七月に卒業し、十月には高等文官試験外交科(外交官試験)にも合格して、外務省条約局第一課に勤務する。同期より三歳年嵩の二十七歳であった。

 入省後、大正十年には外交官補に任じられて英国勤務、十一年には大使館三等書記官に任じられて翌年からドイツで勤務している。

ABCDE

 須磨が初めて中国の地を踏んだのは昭和二年である。公使館二等書記官として北京に在勤するが、それは、当時一等書記官であった重光葵との初めての出会いでもあった。

 当時、外交官試験に合格した役人は、欧米語はよく勉強するが中国語はあまり勉強しなかった。そうした中で、会話ができるほどまで中国語を学んだ外交官は須磨ただ一人だけであったという。語学における須磨の才能と努力を伝えている逸話である。

 須磨は、五年に領事館領事として広東に勤務し、七年には、一等書記官として上海の日本公使館情報部長の職に就き、多彩な情報源から得た貴重な情報を洪水のように東京の本省に打電しつづける。

 ちなみに、大使、公使は外交使節の階級で、どちらも本国を代表して外交交渉を行うのにたいし、領事は、本国を代表した外交交渉はできないが、一定の管轄区域内で、在留自国民の保護や旅券・査証などの発行を行う機関である。重要な地域には、規模の大きい総領事館の置かれるのが常であった。

 さて、大正八年三月には日本が国際連盟を脱退、十月にはドイツも脱退して国際緊張は急速に高まるが、須磨は総領事として南京勤務を命じられ、翌九年一月には公使館一等書記官兼務となって忙しい毎日を送った。

 十一年間に及ぶ中国在勤を終えた須磨は、昭和十二年には駐米大使館参事官として渡米、二年後に外務省に帰って七代目にして最後の情報部長を務め、翌年には特命全権公使として、「世界の展望台」と言われていた中立国スペインに派遣されるなど、席のあたたまる暇もなく世界を飛び歩く。

 スペインに出たことについて須磨は、冗談まじりに、自分はA、B、C、D、Eの順にあるいて回った、と述懐している。つまり、アメリカのA、ブリティッシュ(イギリス)のB、中国(チャイナ)のC、ドイツのD、そしてエスパニア(スペイン)のEというわけである。

 マドリードに着任した須磨は、アメリカの対日参戦の鍵はイギリスのチャーチルが握っていると考え、その動向の把握に細心の注意を払う。公使館のラジオに朝から晩までかじりつき、「ラジオの番人」のニックネームも奉られた。昭和十六年八月に行われたチャーチルとルーズベルトの大西洋会談などについて本省に送った須磨の情報は、広い視野と鋭い観察に裏打ちされたきわめて精度の高いものであったと言われている。

 終戦後の昭和二十年十二月六日、東京から須磨のもとに戦犯容疑者として上位に指名された旨の電報が届き、戦犯は処刑されるとの噂が流れる。しかし須磨はそれを覚悟で翌年帰国、家族も身の回りを整えてその時に備えたが、数回の尋問を受けただけで身柄を拘束されることはなく、二十六年には戦犯指定そのものが解除になった。

 昭和二十八年の吉田茂首相によるバカヤロー解散の直後、改進党総裁に就任していた重光葵から「改進党内閣には須磨外務大臣が不可欠」と請われて衆議院に立候補し当選する。六十歳になっていた須磨の新しい出発であった。

 二年後の総選挙でも当選して吉田茂内閣批判の先陣を切るが、かつては外務省で先輩後輩の間柄であった吉田との政治上での駆け引きにはまり、事が思うように進まない。政界からの引退をすすめるはな夫人の助言もあり、三度目の出馬がうまくゆかずに落選したのを機に政界からは身を引いて、母校中央大学の常任理事に就任した。

 しかし、そのかたわらで日本国連協会理事、日本スペイン協会会長なども務めて、豊かな外交経験を復興途上の母国のために生かすことも怠らなかった。

 須磨と言えば雄弁家として有名で、語り始めると話題は尽きることがなく、巧みな話術と相まってその弁舌は多くの聴衆を魅了した。

 秋田高校でも何度か講演しているが、その様子の一端は、秋高OBで唯一の直木賞受賞者である西木正明の『梟の朝』にも小説的に描かれている。

 卓越した語学力、世界観、芸術観を有する須磨は「日本人スマ」として世界的に知られたが、その一方、誰とでも率直に付き合うので「裸の外交官」としても親しまれた。

 私生活においても、文字通り裸のことが少なくなかったようで、須磨は毎朝五時には起き、まず薙刀を振り回すこと数十回、次いで、八十キロ近い巨体にパンツー枚といういでたちで、秋田犬をお伴に一、二時間のジョギングというのが日課であった。

 また、太陽論者の須磨は、みずからサン倶楽部を主唱してつねに太陽のごとく明るく健康にふるまい、家庭ではバンツ一丁で過ごすことも少なくなかったという。

須磨コレクション

 他方、須磨の絵画好き、蒐集癖は秋田中学時代から始まっているようである。土崎の自宅から秋中までの道すがら、矢の根石を集めたり、篆刻に凝ってみたりといった具合で、生涯にわたる美術への関心の出発点はこのあたりらしい。最初はお菓子のブリキ箱に、使い込まれた絵筆と画帳をしのばせ、後年は、絵の具や画帳など絵画の七つ道具一式を入れたカバンをどこにでも携行して、旅先のみならず車窓からも描きつづけ、一万点を越す水彩画や水墨画を残した。

 戦後は個展を数回開いているほか、秋田を題材にした画帳も『土崎帳』『十和田帳』などと題して残している。須磨は南画院の同人になっており、第十九回南画院展に出品された「心眼観仏」は、須磨の代表作のひとつである。

 故郷との関連で言えば、獅子吼会も忘れることができない。これは、明治四十四年度に秋田中学を卒業した有志が集ったもので、大いに世を語り合い、若い人を見習い、いい仕事を残そうという趣旨で、昭和になってから発足した同期会である。

 会員には小玉確治(小玉合名代表社員)、平沢長吉(国会議員)、池田徳治(民選による第二代秋田県知事)など、錚々たるメンバーが集まっていた。

 その「獅子吼会」という命名が須磨によるものであり、その記念に須磨が刎頸の友の小玉確治に贈った「獅子の図」は、五百年以上も前の中国の画家胡儼が描いた畳二畳ほどの大作である。

 「獅子の図」を含む蒐集癖の方は、それぞれの赴任地で大いに発揮された。十一年間過ごした中国では、書画、彫刻、陶器などの美術品を一万点以上も集めたと言われている。

 また、スペイン赴任の際には五年間で千七百点の美術品を蒐集しているが、スペインの庶民を描きつづけた郷土画家ソラーナの作品との出会いは着任後間もなくであったと、須磨の長男・未千秋が編んだ『須磨弥吉郎外交秘録』に述べられている。

 そのソラーナの他、グレコ、ベラスケス、ゴヤ等の名作も須磨の蒐集の中に入っているが、終戦と同時に、須磨の蒐集品はスペインに留め置かれた。

 その後、二十年以上に及ぶ長い返還交渉の末に約五百点が須磨の手に戻り、そのうちの約三百点が、長崎開港四百年を機に長崎県立美術博物館に寄贈されて公開展示されている。

 須磨には、既述の画帳以外の著書も多く、昭和三十九年に刊行された豪華本『とき(須磨日記)』の他、『外交秘録』『夢』『スペイン芸術精神史』『世界動乱の三十年』『スターリンの碑銘』などがよく知られている。

 長年にわたる須磨の幅広い活動に対して昭和四十年に勲二等旭日重光章が授与されたが、その五年後の四月三十日、英傑の外交官須磨は七十七歳にして東京で病没した。

柴山 芳隆 (S36卒)