深井 史郎 (ふかいしろう)

五線紙の中で 生涯を終えた作曲家

2014年08月22日更新

「第九」を聴きに上京

 生涯を五線紙に語りつづけたと形容される深井史郎が秋田市新屋元町(旧下表町)で誕生したのは明治四十年(一九〇七)四月四日である。父と長兄が医師、次兄は農学博士だから秀才一家と言ってよいであろう。

 大正十四年(一九二五)に四年で秋田中学を終えた深井は鹿児島の官立第七高等学校造土館(鹿児島大学の前身)の理科に入学する。漠然とながら建築家を志していたのである。

 校内のルーザ・カルテットに加わり、さらにリムスキー・コルサコフの和声法や対位法まで学んだりしていたが、肺を患い、昭和二年(一九二七)に卒業すると同時に郷里に帰って二年間の療養生活を送った。

 病状が落ち着いたのをみて、深井は親友の大島郁太郎とともに秋田マンドリン・オーケストラに参加する。そこで指揮をしていたのが石田直太郎であった。

 石田は以前秋田中学の教師で、深井も彼に教わったが、専門の漢文や書道はそっちのけで古美術や音楽、文学の話などに脱線する型破りの教師であった。

 中学時代の深井と大島は、土崎にある石田宅を何度か訪れ、外国製の蓄音機でドボルザークやべートーベンの音楽に触れている。

 大正十三年の暮れには、ベートーベンの「第九」を聴くため二人揃って東京に出かけたりしたこともあった。

 昭和三年、音楽を志す若者二人は親の説得に成功して上京。深井は山田耕筰と近衛秀麿に入門を申し込んで断られ、仕方なく国立音楽学校に籍だけ置き、南葵文庫に通う。この文庫は紀州徳川家の蔵書を公開したもので、大正十三年からは音楽図書館も開設していたのである。

 ところが、国立に学校騒動が発生して深井は帝国音楽学校に移る。そこに作曲科が新設され、菅原明朗が教えるというので受験したものだが、受験生は深井一人だけであった。

 菅原は、作曲理論では当代随一と言われていた音楽家で、以後、深井は菅原に師事して音楽理論を学んでいく。

 なお、一緒に上京した大島は東洋音楽学校に入ったが、病気のため中退している。

 深井の帝国音楽学校卒業の前年になる昭和五年、東海林太郎が満鉄を退社して帰国していた。深井は秋田中学のこの先輩を東京セレネーダースという男女四人ずつのコーラスグループに紹介する。東海林は、このグループのレコード吹き込みテストから芽をつかんで歌手への道を踏み出したのだから、深井は結果的に東海林の恩人になったと言えよう。

出世作

 さて、帝国音楽学校を出た深井は関忠果の知遇を得て、まず映画音楽に手をそめる。昭和七年、「長崎留学」(新興キネマ)「新納鶴千代」(同)「大菩薩峠」(日活)などを立て続けに作曲している。

 他方、昭和十年には合奏団コンセール・ビジューを結成し、管弦楽と合唱の演奏を試みるが、これは一年きりで解散した。ただし、この十年には作曲家連盟に入会したほか、北川冬彦、草野心平、高木東六らと語らってポエムクラブ(詩と音楽の会)を結成している。

 この会は、ポエム(詩)とムジカートン(音楽)の頭文字をとったもので、深井が草野心平の詩「蛙・祈りの歌」に作曲したものは「詩と音楽」という雑誌に掲載されたりした。

 深井の出世作は、昭和十二年の新交響楽団主催第一回邦人作品コンクールで入選した「パロディ的な四楽章」である。これは、深井の最初の管弦楽曲であるが、題名のとおりファリア、ストラビンスキー、ラベル、ルッセルの四人の西欧作曲家を意識的に模倣し、技法上の実験をいろいろ試みた作品であった。

 音楽に限らず、芸術の世界では模倣は敬遠されがちなものだが、深井は、当時、楽壇一の文章家として知られ、深井も私淑していた伊庭孝の「作曲家は模倣を恐れてはならない」という言葉に共感してこの作品に挑戦したと言われている。

 二人が直接知り合ってからは、伊庭は深井のどんな小曲でも聴いて批評してくれたし、音楽以外の分野でも深井は伊庭の影響をいろいろ受けている。深井が、生涯の師として、石田直太郎、菅原明朗とともに伊庭孝を挙げる所以である。

多彩な作曲活動

 昭和十三年、深井はNHKからの依頼で国民詩曲「日本俚謡による嬉遊曲」を完成し、翌十四年には楽団プロメテに途中から参加した。これは、田沢湖町神代に本拠を置いて新しい音楽舞踊運動を全国的に広めているわらび座主宰の原太郎を中心としたもので、当時の楽壇の中ではかなり進歩的色彩をもったグループであった。

 芸術至上主義的傾向の強い菅原明朗門下の深井が左翼的なグループに加わったことは興味深いが、そこに深井の理想主義的、人道主義的な人間性をかいま見ることができる。

 なお、この十四年には、北原白秋の「日本の笛」に曲をつけているが、この独唱曲は後に多くの人々に歌われた。

 昭和十五年は紀元二千六百年記念の年で、十二月に奉祝芸能祭が盛大に行われた。深井は、この催しのため日本文化中央連盟の委嘱で現代舞踊「想像」を書き、翌十六年には、新京市の招きで満州に渡って各地を視察、新京交響楽団のために交響管弦楽「大陸の歌」を作曲した。

 出世作「パロディ的な四楽章」が、日響、ローゼンシュトック指揮で再演されたのは昭和十七年だが、深井はこの年にも渡満し、翌年、満州民謡による交響組曲「海原」「葬送行進曲」などを作曲している。

 戦後最初の大きな仕事は、昭和二十四年にNHKの依頼で作曲した混声合唱と大管弦楽のための交声曲「平和への祈り」であり、翌年にはブランデンの詩による舞踊曲「秋の声」四景が書かれた。

 二十八年発表の「マイクロフォンのための組曲」はテープ録音を使用したもので、初めての実験として注目されたほか、放送芸術祭に参加した「雪女」は文部省作曲奨励賞を受けている。

 昭和三十二年は東京開都五百年にあたっていて、賑やかな祭典が開かれたが、深井は東京都からの依頼で「交響曲絵巻――東京――」を作曲するとともに、同年、声楽家内田るり子のために「四つの日本民謡――田植唄、田の草取り唄、船頭唄、盆踊り唄――」を書いた。

 これは、戦前、東宝の文化映画「土に生きる」のために秋田県内各地を回り、能代市郊外の田植唄から男鹿半島のまんだら、さらに田沢湖の奥地で古いおぼこ節や正調生保内節をたずね歩いたときから、深井の脳裡に深くしまわれながら、成熟のときを待っていたものであった。この作品は「音楽芸術」誌上で高く評価された。

 他方、この時期は映画音楽の作曲も旺盛で、三十二年の東映「鳳城の花嫁」ではアジア映画祭音楽賞を獲得している。日本映画音楽協会会長に就任したのもこの年であった。

 深井の映画音楽は数知れないが、映画音楽は一本の映画に数十曲もの作曲が要求されるので、どうしても負担が大きくなってくる。とくに、深井のように良心的にひたむきに仕事に取り組む型の人間にとっては、いたずらに才能をすり減らされるだけでなく、心身の激しい消耗を強いられる要素も内包していた。

作曲中に絶命

 深井は、神楽坂と矢来町の問の高台に、自分で設計した家を建てて暮らしていたが、楽譜の山に囲まれ、部屋の内側から錠をおろして五線紙と格闘する毎日であった。

 作曲の他にも、『恐るるものへの風刺――ある作曲家の発言』(音楽の友社、昭和四十年刊)の著作に取り組んでおり、そうした多忙な日常のなかで深井は、次第に、酒に睡眠薬をまぜたものの力を借りなければ休息を取れないような状態になっていく。

 昭和三十四年七月二日、京都の旅館の一室で、近松門左衛門の『冥土の飛脚』を映画化した「浪花の恋の物語」を作曲していたが、にわかに胸の苦しみを訴え、そのまま急逝してしまう。狭心症に襲われたもので、まだ五十一歳の若さであった。

 作曲中の壮絶な絶命で、音楽家としてはある意味で本望なのかもしれないが、もう少し長生きしていれば、さらによい仕事を残してくれたに違いないと思うと、無念としか言いようがない。

柴山 芳隆 (S36卒)