小田内 通敏 (おだうちみちとし)

郷土地理学のパイオニア

2014年01月24日更新

武蔵野に興味を抱く

 小田内通敏は、明治八年(一八七五)六月六日、秋田市手形に在住していた士族田所通志の三男として誕生した。幼名は三治である。

 田所家は、代々佐竹藩に仕え、学問を尊ぶ気風の強い名門の家柄であった。農学と理学の二つの博士号を持ち、酵母菌の研究で有名な田所哲太郎北大名誉教授(後述)は、通敏の甥にあたる。その通敏は、幼くしてやはり士族であった小田内家に養子として迎えられた。

 明治二十八年に秋田中学を卒業した小田内は、翌二十九年、日本最初の高等師範学校である官立東京高等師範学校(東京文理科大学などと共に筑波大学に統合)の地理歴史専修科に入学する。

 入学間もないころから小田内は東京の西の郊外に広がる武蔵野の自然と人間生活に興味を持ち、暇をみては、前後して発表された国木田独歩の名作『武蔵野』に描かれた自然と風土を自分の眼でじかに観察してまわった。

 ただし、『武蔵野』の方は随筆だから作者の足の向くまま気の向くままだが、小田内は学問が念頭にあるから、科学的、体系的な視点を忘れてはいない。

 三十二年に東京高師を卒業するが、小田内は在学中から早稲田中学校の地理科の講師として勤務しており、この勤務は大正六年(一九一七)までの二十一年間に及ぶことになる。大正四年九月からは早稲田大学の講師も兼任し、のち専任講師に昇進したほか、慶応義塾の非常勤講師も務めたりした。

 官立学校万能の時代にあってあえて私学を選んだのは、私学の自由な雰囲気に魅力を感じ、早稲田や慶応の建学の精神に共鳴したということのようである。

 勤務のかたわら小田内は、春夏秋冬あらゆる季節や時間帯を通じて武蔵野を縦横無尽に歩き回り、得意のスケッチをしながら武蔵野の多彩な自然とそこに住む人間の営みを細かにとらえていく。

 そして、その中から都市の近郊というものの性格を浮き彫りにし、それらを『我が国土』(大正二年)、『都市と村落』(三年)、『帝都と近郊』(七年)などの著作に結実させていく。

 特に、洛陽の紙価を高めた名著『帝都と近郊』は、日本の郷土地理学、集落地理学の出発点となった記念すべき一冊で、その内容は、武蔵野の自然的環境、住民とその居住、土地とその利用、農業、工業、交通機関の六章から成り、都市の近郊の村落の実態と性格がきめ細かに述べられている。

航空写真の採用

 未知の学問分野の開拓者としての努力はその後も営々として続けられ、それらは、昭和二年(一九五七)の『聚落と地理』、五年の『郷土地理研究』、七年の『日本、風土と生活形態―航空写真による人文地理学的研究』等の著作の形で一つ一つ着実に結実していく。

 特筆すべきは、当時としては得難い航空写真を、陸軍航空本部と千葉県佐倉の近くにあった下志津陸軍学校に懇請して借り受け、活用したことである。数百枚の中から、もっとも特色のある地域や景観を選択し、学問的な見地からこれに的確かつ簡明な解説をほどこしている。

 わが国の地理学で航空写真を取り上げたのは小田内が最初と言われ、それだけまた高い評価を受けたのであった。眼のつけどころが違うと言ってよいであろう。

 小田内の研究の進展に呼応して、昭和四、五年ころから、本邦の教育界に郷土教育の重要性が認識され、教材として郷土の各種資料が活用される一方、盛んに郷土調査が行われるようになっていく。

 前記『郷土地理研究』には、郷土の研究過程、村落立地の考察、村落社会の地理的要素、地理的環境としての土地、都市地理の研究、都市的人口集団の一考察、郷土地理への学的根拠、地域と国と世界、イギリスの地理学的思想、ドイツとロシアの郷土教育等、実に幅広い内容が盛られており、郷土教育の方向性や範囲が、専門家にとって一目瞭然であるばかりでなく、素人にも分かりやすい形で紹介されている。

 また、同書では、郷土地理への学問的根拠の中に、イギリスの社会学者ルプレーの思想を紹介しており、誕生して間もない学会に大きな示唆を与えた。

 昭和五年九月、小田内は文部省普通学務局教育制度調査嘱託となり、郷土教育の重要性とその具体化に専心努力することになる。

 この年、郷土教育連盟を創設し、雑誌「郷土」の創刊にも加わった小田内はまず、教員養成機関としての全国各師範学校に郷土の総合的研究を実施させることの重要性を指摘した。

 やがてそれが認められて昭和十年度において山梨県を対象地に指定し、調査研究を山梨県師範学校に依頼した。依頼したとは言っても、その研究の立案と指導には小田内が直接あたった。

 この間、昭和六年にはパリ、九年にはワルシャワで開催された国際地理学会議に出席して研究発表したほか、ワルシャワに行った年には『田舎と都会』の出版もしている。

 この『田舎と都会』の中で、小田内は「郊村」という語を用いて郊外と郊外人の特性を指摘し注目された。肥大化・猥雑化していく都市の風景を、土と木と水の色に満ちた郊村を通して見直せというものである。柳田国男門下の中では異色の視点と言え、それは、七十年後の今日の状況にもあてはまる先駆的なものである。

 昭和十一年十一月、『山梨県総合郷土研究』の大著が上梓される。その序文の一節に、「郷土教育の対象たるべき郷土社会の有機的な形態と機能を明らかにすることを目的としたから、その研究項目は、生活環境、歴史的発達、人口、集落、産業、交通、行政、経済、社会、文化等の諸部門にわたり、すべて郷土社会の有機的関係を究明し得るような総合的なものを選ぶことにした」と述べて、その意図するところをあますところなく謳いあげている。

 山梨県に引き続き、昭和十四年四月に郷土秋田県、同五月に茨城県、続いて香川県のものが刊行され、現在もなお貴重な参考文献として活用されているようだから、その資料的な価値の高さと普遍性は第一級のものと言える。

在野精神

 前述したように、小田内の活躍した明治、大正、昭和初期は帝国大学出身者を頂点とする官学卒業生優先の時代で、地理学会においてもその一団が完全にリードしていた。小田内など私学関係者は、研究面においても何かと差別を受け、「小田内は在野派の代表であった」と評されている。

 どんな分野でも、世に先駆けるパイオニアというのは、固定した既存の組織からはなかなか生まれてこないものである。

 小田内の真の理解者は、小田内に近いごくわずかの地理学者のほかは、歴史学者、民俗学者、農政学者、植物生態学者など、かえって隣接部門の第一線の研究者であったと言われている。

 大正十二年、そんな小田内に、東洋史学の権威で京都帝国大学の教授を務める内藤湖南博士から京大に招聘したいとの話が持ち込まれた。

 内藤は鹿角郡毛馬内(現鹿角市)出身で秋田師範を出ている同県人なので小田内の気持ちも多少は動いたようだが、ちょうどこの頃、朝鮮の集落調査に手をかけた時期だったので、小田内は結局承諾しなかった。地位や名誉よりもまず眼の前の学問という気持ちだったのだろう。

 ただ、晩年、「家内にあんな苦労をかけるのであったら、京大行きは承諾すべきであった」と洩らしたという。家族のことなど顧みるいとまもなく研究に没頭していたのであろうことがしのばれる。

 なお、小田内は渡鮮していたこの時期、後述する小場恒吉と交歓している。小場は新羅の仏跡調査のため朝鮮を訪れていたもので、魅力ある人々の間にはおのずからにして交流の輪が広がるということであろうか。

 内地はもちろん、朝鮮各地の広い範囲から得た膨大な資料や文献は、東京大久保の自宅に所狭しと積まれていたが、太平洋戦争中の空襲のために惜しくもすべて失われてしまった。七十歳の老体で、病臥中の夫人を背負って炎の中を逃げ回るのが精一杯だったのである。

 昭和二十九年十二月四日、秋田中学で二年先輩であった二木謙三博士の健康診断を受けて自宅に帰る途中、豊島区池袋一丁目の路上で交通事故に遭い、七十九歳でまったく不慮の死をとげねばならなかったのはいかにも残念である。

柴山 芳隆 (S36卒)