菅 禮之助 (すがれいのすけ)

日本エネルギー界に君臨

2014年02月28日更新

良質の反骨精神

 菅禮之助の本籍は戸籍上では雄勝郡雄勝町秋ノ宮(旧秋ノ宮村)になっているが、実際の誕生地は秋田市土崎である。明治十六年(一八八三)十一月二十五日の朝のことであった。

 祖父の運吉も事業家であったが、菅の父親禮治は「秋田の渋沢」と言われ、四十八銀行の創立や秋田商業会議所の創設等に尽力した大実業家で、港に臨んで風光明媚であった菅邸は、明治十四年九月十五日に、第二回目の東北巡行をした明治天皇の行在所として指定されている。

 土崎尋常小学校を終えた菅は、高等科を経て明治二十九年四月に秋田中学に入学、そのころは東根小屋町にあった校舎まで、土崎から毎日徒歩で通学した。当時はそれが普通であった。

 一年次、二年次とも首席で学業成績は抜群であったが、三年生の時に、先に奈良磐松のところで述べたストライキに関係して中退を余儀なくされ、東京半蔵門にあった私立日本中学校からさらに商工中学校を経て、明治三十三年に官立東京高等商業学校(一橋大学の前身)予科に入学した。

 本人は一高(官立第一高等学校)から東京帝大というコースを思い描いていたようだが、最終的には父親の意向に従ったものであった。

 ところが、入学早々に肋膜を病んで一年間休学、本科の三年次には仲間たちとともに反校長のストライキを断行して一度は放校処分を受けている。秋田中学でのストライキに続く二度目のストライキで、このあたりは、正義感が強く、血の気の多い菅の面目躍如といったところである。菅の生涯に一貫して流れる良質の反骨精神は、若いときからのものであった。

 ただし、この放校処分は半年後に校長側からの申し入れで取り消しとなり、明治三十八年七月にめでたく卒業証書を手にしている。卒業時の席次は四番であったが、これは菅にとって全学生生活を通じて最低の成績であったというから、いかに優秀な学生であったかおのずからにして察しがつく。

 高商時代の菅は、漕艇部の一員としてボート競技に精を出していたほか、「一橋会雑誌」などに何度も詩文を発表するなど、文学関係にも並々ならぬ興味を示していた。

 中学生当時は与謝野鉄幹の詩を愛唱していたという菅だが、この時分はもっぱら土井晩翠の雄渾、悲壮な調べに深い共感を覚えていた。

古河鉱業入社

 高商を卒業した菅は、古河鉱業会社に就職する。後年、大財閥に発展していく古河鉱業も、菅が入社した当時は新設四ヵ月目で、組織や機構もきわめて貧弱なものであった。

 菅と古河の因縁は浅からぬものがあるので、ここでちょっと古河について触れておくことにする。

 初代の古河市兵衛が死去したのは明治三十六年四月、菅の古河入社二年前である。養子潤吉があとを継いだが、精神疾患で古河家総帥の任に耐えられなくなった。それまでの古河は、まったく前近代的な一個の私企業に過ぎなかった。そこで相談の結果、古河鉱業会社設立となったのである。

 明治三十八年三月にスタートした古河鉱業は、資本金五百万円。社長には古河潤吉をおき、この人の出資額四百八十万円。副社長は原敬(後の首相)で、出資額は五万円。あとの十五万円は、潤吉の義弟で先代の実子である古河虎之助が十万円、古河家の大番頭が五万をそれぞれ出した。

 菅が入社した年の十二月に古河財閥二代目の当主潤吉が死去。そのために、米国留学中の虎之助が弱冠十九歳で家督を相続し、古河鉱業の社長に就任した。以後、菅はこの古河虎之助とさまざまな関わりをもっていくことになる。

 さて、古河鉱業に入社した菅は、まず商務課に配属された。商務課長はまだ欠員であったが、菅が入社して間もなく、商工中学の先輩であった中島久万吉が課長として入社してきた。この人物は、男爵中島信行の息子で、母は、陸奥宗光の妹である。俳句をよくし、以後、長く菅が親交を結ぶことになる。

 それはさておき、入社したての菅は、商務課の一書記として、専ら記帳係のような仕事を与えられた。しかし、そうした内容の仕事は活動的な菅には不向きで、中島課長にそのことを訴えると、「君は憤慨居士だ」と冷やかされながらも、足尾銅山の見学に出してくれた。足尾の当時の工場長は、これまた後に肝胆相照らす親友となった山田復之助工学博士であった。

 明治三十八年秋に、横手の長瀬道倫の娘で、県立秋田高等女学(現秋田北高校)出の才媛サキ子と結婚した菅は、翌三十九年夏、銅の売り込みのため天津駐在を命じられ、一年余り外地での経験を積む。

 中国から帰ると、元通り商務課に籍が戻ったが、やがて大阪支店の副支店長、門司支店長、大阪支店長として活動の幅を広げていく。副支店長時代の一時期、酒色に溺れていたこともあったようだが、賢夫人に支えられる一方、明治四十五年三月の父の死去に遭遇してみずからを立て直し、仕事に専心していくようになる。

古河財閥の重鎮

 大正六年(一九一七)、第一次世界大戦による好景気に便乗して急激に膨脹した事業経営の要請に応える形で古河財閥の組織改革が行われ、菅は、新設された古河商事株式会社の取締役に就任する。時に菅三十五歳。社長は古河虎之助であった。

 さて、三十五歳の菅は、古河商事の取締役として重役に列し、大阪支店長を兼ねて、漸次、関西の財界で重きをなしていく。順風満帆の時期である。

 しかし、順風は長くは吹いてくれなかった。大正七年十一月に大戦が終了したという要素も小さくはないが、それ以上の打撃は、世に「大連豆粕事件」と呼ばれた、古河財閥史上永久に黒ワクをもって記述されるような大不祥事である。

 当時、満州の特産物を一手に扱っていた古河の出先は大連出張所であった。そこの責任者であった浅野某という男はすこぶる目先のきく才子で、商売にかけては三井や三菱と対等の実績を上げていた。

 本社側でもその才覚を見込んで重用したが、自分のウデを過信した浅野は次第に投機的な思惑取引に手を出すようになり、大正九年にはその破局を迎えて古河は莫大な損害を被るに至ったのである。

 古河商事最高首脳部の特命を帯び、大勢の助手や顧問団を引き連れて菅が現地に乗り込んでみると、倉庫という倉庫はすべて大豆と豆粕の山。その量は、当時内地で一年間に消費するよりも多かったという。

 この不祥事に金融恐慌が追い打ちをかけ、古河商事はほとんど商事会社としての実態と機能を失う事態に立ち至って、大正十一年には資本金を四分の一減資のうえ、古河鉱業に吸収合併されてしまったのであった。

 古河虎之助は、私財の整理によって損失を補い、外部には一銭の迷惑もかけなかったと言われているが、古河全体の受けた打撃はきわめて大きく、大量の社員整理を余儀なくされ、社内は長い間重苦しい雰囲気から逃れ出られなかった。

俳人騾馬(らば)

 ここで話題を少し転ずる。

 菅がいつから裸馬の俳号を用いたか、正確なところは定かでないが、心ひそかに尊敬していた正岡子規が没したのは、東京高商でストライキ騒ぎがあった年であった。

 その前後から、華水と号した中島久万吉と一緒に、子規の高弟である高浜虚子や内藤鳴雪らと交遊している。

 菅が、関西俳壇の重鎮である青木月斗主宰の「同人」に参画したのは大正九年で、以後、幹部同人として終始し、後には月斗の後を引き継いでみずからも主宰になっている。昭和三十九年(一九六四)に『裸馬五千句』が出版されたことからも分かるように、句作も菅の日常生活の大切な一環であった。

 菅が古河を退社したのは昭和六年だが、終盤の十年間は仕事の上では取り立てて述べるほどのこともない。しかし、この期間は俳句の他に禅にも深く傾倒した時期で、菅が俳禅一味の境地を開いていく過程としては大事な十年間であったと言えよう。

 二十七年勤めた古河を退社するにあたって菅は十三万円の退職金を手にしているが、そのうちの八万円は、天下無双の横綱であった常陸山の弟の借金の肩代わりとしてポンと投げ出している。もともと物欲の乏しい菅だが、ますます金銭に恬淡としてきた菅の一面を物語るエピソードである。

 なお、退職金の残り五万円のうちの三万円を使って世界一周旅行を試み、大いに見聞を広めている。この辺も菅のスケールの大きさをしのぼせてくれるところである。

 相撲と言えば菅は、秋田県出身で現役時代の四股名を大蛇潟(最初は能代潟)といった錦島三太夫を特にひいきにし、物心両面の援助を惜しまなかったばかりでなく、後に劇化もされた「錦島三太夫の死」と題する作品も残している。

 菅が、帝国鉱業開発の社長に就任したのは、戦雲急を告げ始めた昭和十四年である。この会社は帝国鉱業開発株式会社法という法律に基づいて設立された純然たる国策会社で、その筋からの強い要請によって社長就任を引き受けたものであった。

 また、戦時中の十八年に、藤田組が同和鉱業と社名を変えたとき、やはり要請を受けて取締役会長に就任した。

 終戦の翌年、菅は、存在理由を失った帝国鉱発の社長を免ずるという内閣辞令を受け取ったが、それにはもう一枚の辞令がくっついてきた。石炭庁長官に任ずるである。

 敗戦による復興のために必要なものは、まずそのためのエネルギーであり、その中心になるのが「黒いダイヤ」石炭であった。

 菅は全力を上げて、石炭増産というみずからの新たな使命に取り組み、二十二年からは配炭公団総裁も兼務して、日本のエネルギー問題にさらに深い関わりを持つようになっていったが、二十三年には公職追放にあってどちらからも身を退いている。

エネルギー産業の最高峰

 菅が、松永安左衛門に説得されて東京電力株式会社の会長に就任したのは昭和二十九年であり、さらに電気事業連合会会長(三十年)、経団連評議会議長(同)とつづき、日本原子力産業会議議長の職を襲ったのは三十一年であった。ここに、日本経済の発展・成長の基幹であるエネルギー分野の最高峰として多忙な日々を送り、日本の財界を代表する一人になったのである。

 このころの菅の〝業界大団結論″は、政財界から大きな注目を集め、賛同する者も少なくなかった。

 長年菅とともに歩みを共にし、大正四年には男爵にも列せられていた古河虎之助はすでに昭和十五年に物故していたが、菅が編集責任者となって二十八年の夏に六百七十ベージの大冊『古河虎之助伝』を刊行、故人の遺徳をしのんだ。

 高齢を理由に財界の第一線を退いた後も菅は、経団連顧問、常盤共同火力会長などを務めるかたわら、同和鉱業、アラビア石油、東京ガスなどに関係し、財界の重鎮として幅広く貢献した。

 長年にわたる石炭、電力、原子力等への貢献で勲一等瑞宝章を受けた菅が、八十七歳で長逝したのは、昭和四十六年二月十八日であった。

柴山 芳隆 (S36卒)