わが青春…学びやと共に (2)
手形校舎
2014年09月01日更新
手形校舎での思い出
相馬 高胤(昭和20⑤卒)
私たち昭和15年入学生は5年間手形校舎で学んだが、この校舎は昭和11年に新築されたまだ新しいもので、当時は三吉神社に通じる手形の本通りに面し、北側は秋田鉱専(現秋田大学工学資源学部)、西側一帯は17連隊の練兵場で、それに沿って営林局のトロッコが走り、南西隅にあった校門の少し手前にそのトロッコの踏切があった。
校門を入るとすぐの奉安殿に最敬礼し、それぞれの昇降ロヘ。校舎は2階建てが3棟、平屋が1棟で、一番手前の下が校長室や職員室等で、その上は3年の教室、続く棟に各学年ごとそれぞれの階を占めていた。一番奥の平屋は物理・化学用で階段教室が珍しかった。各棟を結ぶ渡り廊下が昇降口で、各自の下駄箱があり、学年に応じて下駄や足駄の後側に1本から5本の筋をつけさせられた。この昇降口に各学期末、席次が張り出されたが、学年末に名前のないのは落第ということ、外部の人も自由に見に来ていた。校舎の東側には大・小体操場があり、大の方には全校生が集い、朝礼や応援歌の練習、時に朝礼後登壇した配属将校が「本日M検をする」と宣告、体操場の隅で一列に並び、校医によるM検を受けたこともあった。大体操場に続いて音楽室、銃器庫があり、三八式歩兵銃や、重い村田銃などが並び、その隣りが剣道場、一番奥が柔道場で、床にはスプリングが入っており県内一の道場と言われていた。
校庭は北東隅に野球のバックネットがあったが、戦争が激化し、金属回収で供出させられた。東側には相撲の土俵や、炭焼き小屋、さらに豚小屋まで作られ、豚当番は家から飼料になるものを持参したり、リヤカーを引いて駅前にあった木内支店等の食堂に残飯をもらいに行った。プールはなく、水泳部は空素沼(からすぬま)や将軍野遊園地に出かけた。練兵場ではグライダーの訓練がなされ、ラグビーの練習にも利用された。当然校庭では陸上競技部がトラック、フィールドの練習に励んだが、戦争が進み、土嚢(どのう)を担いで走るとか、手榴弾投擲(とうてき)等の体力章検定なるものの場ともなり、時に狭窄射撃の訓練も。また炭カスを敷いたグラウンドに正座、気合を入れられたこともあった。
教室は各学年AからEまでの5組、各クラス50名、2年からは上位100番までが秀才組と称して2クラス。各教室ともその席は成績順に後から前へ、ために一番後は壁頭と称し秀才の代名詞。
冬は言うまでもなく薪ストーブ、その上に蒸気をあげる金盥様(かなだらいよう)のものがあり、1年先輩のあるクラスでこれに小便を入れ、知らぬ先生手を洗い、悪戯がバレ、転校、停学等の大騒ぎがあった。
私たちが2年の時、大東亜戦争が始まった。その進展により援農作業、土木作業等に駆り出されたが、4年まではどうにかそれなりの授業があり、英語はサップと称する副読本まであり、敵国語という軽視はなく、堂々と敗戦を予言する先生さえいた。
昭和19年12月 川崎東芝電気へ動員時の全員写真。 250名入学したが、途中陸幼、陸士、海兵、予科練、特幹等の軍関係、旧制高校、高専等への入学者等で130名くらいしかいなかった。
5年生になると国鉄工機部、機関区、帝石八橋鉱業所等への小グループでの勤労奉仕が多くなったが、この間も授業は細々と続いた。一方軍事教練は多く、4年では追分廠舎(しょうしゃ)(従来の強首から移った)で3泊4日、現役下士官の生々しい戦場体験や、軍隊における要領なども教わった。18年夏、全県中等学校が南北軍にわかれ、能代東雲原で一大演習があり、各校とも民家等に分宿しながら能代まで徒歩行軍した。その他3年では鍛錬行軍と称して3泊4日で男鹿半島を徒歩で一周した。
19年12月。私たち5年生全員東芝電気川崎工場に動員、宿舎は南武線鹿島田駅から十数分の田圃の中の社員住宅、6名ずつの分宿で川崎まで電車通勤、小グループに分かれての作業。
20年3月10日。東京大空襲では宿舎の近くに爆弾、焼夷弾、機銃掃射までうけたが、幸い全員無事。近くの軍の倉庫が被爆、鮭缶が拾い放題。ふくれた缶詰を水で冷やしたりの大騒ぎ。
そして3月30日。玉木校長がすし詰めの鈍行列車でおいでになり、東芝工場講堂で簡素ながらも厳粛に卒業式を挙行(卒業式は3月31日、4月2日説があり、一応卒業証書の日付としたが釈然としない。また川崎動員については秋高百年史に級友吉野重厚君が詳しく寄稿している)。
1年後輩は白線なしの戦闘帽、4年夏には遠く群馬に動員。その地で4年で繰上げ卒業と大きな犠牲を強いられたが、私たちは動員中も黒いマントで闊歩、優れた先生たちやよき級友に恵まれ、中学生活を謳歌しえた最後の秋中生かもしれない。
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相馬 高胤 さん (S20) プロフィール
昭和2年3月旧仙北郡神宮寺町(現大仙市神宮寺)生まれ。神宮寺小、秋田中学、上智大学(専、経済)卒。昭和25年秋田銀行入行、同57年東北機械に出向。同61年八重樫建設に移り平成11年、72歳で退社。