斎藤 佳三 (さいとうかぞう)
装飾美術・ 生活工芸の草分け
2014年04月04日更新
音楽学校から美術学校へ
装飾美術・生活工芸の草分けで、ドイツ表現主義の図案・版画の移入者、さらに詩人、作曲家でもある斎藤佳三は、明治二十年(一八八七)四月ニ十八日、由利郡矢島町館町に生まれた。本名は佳蔵である。
祖父は庄屋、村長を務めた趣味人であり、父親は同町の初代郵便局長で、県議会議員も務めている。
佳三は、矢島の小学校を経て、明治三十三年に秋田中学に入学するが、四年次に、有名な寮生ストライキ事件に巻き込まれる。
秋田中学では、明治三十六年から三十九年までストライキが断続的に発生し、それにともなって逐次処分が行われていた。
教頭や舎監のスパルタ管理に反発する寮生を大量に処分したため、寮生はもちろん、一般生徒も寮生に同情し、学校当局の強引なやり方に反発して同盟休校を繰り返したのであった。「いいものは、出しても何とかなるから大丈夫だ」というのが、剛教育で知られ、後に代議士にもなった添田飛雄太郎校長の言であったという。
校長の予言通り、退学処分を受けた生徒の中には、ゲーテ研究の木村謹治(後述)、ペルシャの古詩「ルバイヤット」の訳者で農民文学の堀井梁歩(後述)、「ファーブル昆虫記」の訳者でパリに住んだ椎名其二、創作舞踊の黎明期を飾った石井漠(後述)、初代秋田市美術館長奈良環之助などが含まれていた。
斎藤佳三もその一人で、早期処分組である。退学を余儀なくされた斎藤は東京神田の叔父宅に止宿して早稲田中学に転校、翌三十七年の二学期からは順天中学の五年生に編入学している。
多彩な交友関係
その後、斎藤は作曲家を志して官立東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)に進み、そこで一つ年上の山田耕筰を知り、小山内薫、北原白秋、三木露風らと交友を結ぶが、小山内の妹にデザインの才能を見出され、音楽学校を中退して官立東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)図案科に入り直す。
美校では、新たに日本画科の川路柳虹や石井漠と親しむかたわら、自筆年譜によると、明治四十一年十月に名曲「ふるさとの」(三木露風詩)が書かれた
美校に卒業制作を提出した斎藤は、卒業前の大正元年(一九一二)十一月にドイツに渡る。明治四十三年に渡欧していた山田耕筰と同宿しながらベルリン王立美術工芸学院で構成美学を学び、あわせて、ダルクローズの主宰する音楽舞踊学校で、リズムに関する研究も積む。
大正三年一月、大戦の気配が濃くなったので、山田とともにシベリア経由で急遽帰国、早速、持参してきた表現派の版画展を日比谷美術館で三月十四日から二十八日まで開催した。これが日本初の西欧版画展となり、白樺派や東郷青児らに影響を与える。
しかし、ヨーロッパの新知識を身に着けて帰国した斎藤を待っていたのは冷たい軍隊生活で、斎藤は一年志願兵として青森の第五連隊に入隊し、八甲田遭難事故から親友小玉確治と二人で「吹雪」を作詞作曲したのはこのときである。
五年三月には初の歌曲集『新しき民謡』十曲を山田の校閲を経て出版したほか、同年六月創立の山田、小山内、石井らによる「新劇場」にも協力し、解散後は、日本初のオペラ常設館であるローヤル館の舞台装置も担当した。
美術と音楽を合わせ、リズム模様を発表して絵画、彫刻、工芸、デザインに大きな影響を与えた斎藤が東京美術学校で教えるようになったのは大正八年五月からで、担当したのは意匠学と服飾学である。当時の教授は文様学の小場恒吉で、斎藤は小場の後継者と目されていた。
十一年、石井漠の渡欧公演に同行して再度留学、ドイツとフランスに滞在するが、関東大震災のため翌年十二月には帰国している。この渡欧は私費ではなく、農商務省嘱託として特許局からは意匠法を、美校からは装飾美術教育の調査を依頼されての公的なものであった。
帰朝してみると、留守の間に起こった大震災で東京の様相は一変していたが、斎藤にとって嬉しかったのは、帝国ホテルの新館が激震にも耐えたということであった。渡欧前、斎藤はホテルの設計者であるライトから依頼されて調度品などインテリア部門を受け持ち、優れた才能を見せていたのであった。
帝展に対決
帰国後の最初の仕事として斎藤は、「リズム模様」と題する作品展を開き、その後も活発な活動を展開して、日本で初めて「商業美術」「商業デザイン」「服飾シルエット」の語を流行させた。
当時、わが国最大の美術展は帝国美術院展覧会(帝展)であったが、その帝展は唯美主義に陥っていた。斎藤は、芸術には生活感覚が不可欠なことを説き、新聞紙上等で盛んに自説を披瀝して、昭和二年(一九二七)には、帝展に美術工芸部門を設けさせることに成功している。
この帝展工芸部に斎藤は、屏風、電気スタンド、小机などを飾りつけた四畳半の和室を出品したが落選の憂き目をみた。頭の固い帝展審査員の目には、部屋などとは非常識以外のなにものでもないと映ったようである。
斎藤は朝日新聞紙上で激しく反駁し、ようやく理解を得られたのか、翌年には「食後のお茶の部屋」が入選、以後、四年「寛ぎの食堂」、五年「日本間の寝床」、六年「応接室」、七年「音楽室の照明・ピアノを主とした部屋」といった具合に、生活につながる総合的な美術を発表していった。
斎藤の目は、つとに大正期から、工芸史が実用美の流れであることに向けられていたのである。
斎藤は一方で、草創期の映画とのかかわりも深い。大正九年に蒲田撮影所ができると小山内薫がそこの所長になり、斎藤は美術部長として参画する。小山内は付属の松竹キネマ俳優学校の校長も兼ねており、斎藤はそれに協力して小山内とともに俳優教育にもあたった。
二人は学生時代・ベルリン時代からの友人同士だから、力を合わせて映画という新しい芸術分野に飛び込んでいったのである。
昭和六年にトーキーが誕生するが、その前年に試作品として「故郷」が製作された。この映画は、斎藤が作曲した「ふるさとの」を主題とした作品で、藤原義江と夏川静江が主役を務めている。
帝劇、帝国ホテル、歌舞伎座のインテリアなどを担当した斎藤は、昭和四年十月に、中国国立芸術院の図案科主任教授として赴任し、かの地に三年間滞在する。上海事件のため六年九月に帰国するが、この間に「西湖湖畔駄菓子売り」などを作曲した。
九年には東京図案専門学院長に就任し、太平洋戦争が近づいた十四年には、厚生、商工両省の委嘱で〈国民服〉をつくり、広く着用された。
翌十五年には東京服装美術学校の校長になるとともに、皇后の宮中服も考案。さらに、戦後間もなくの二十一年には日本女子大学生活芸術科講師、東筑紫学園短期大学教授に就任している。
音楽の方では、昭和六年七月に、『日本新歌謡曲第一輯 斎藤佳三作曲』をビクター出版社から刊行。これは川路柳紅、九条武子らに自作の詩も入れた七曲であった。
この他、同年二月のビクター「ハロウほんもく」(高木健夫詞)、九年五月の「山の娘は」(西条八十詞)など流行歌も昭和元年以来、ビクター、ポリドール、キングなどから六十曲出している。
代表作「ふるさとの」は、七年九月〈国民歌謡〉として阿部秀子の歌で放送され、九年二月以降、幾度も電波に乗って愛唱された。同じラジオ歌謡「月の夜更けに」は、昭和十二年の懸賞放送文芸当選詩に作曲を依頼されたものであった。
現在までに、歌曲、歌謡曲合わせて五十曲ほどが知られている。
人は人を見抜く
昭和二十八年、東京芸大の図案科主任教授が死去し、後任問題が発生した。当時、同大の工芸科長は秋田中学でも美校でも斎藤の先輩である文様学の権威小場恒吉である。意見を求められた小場は斎藤を推薦した。
口髭やビロードの洋服、ボヘミアンスタイルといったものがよく似合う斎藤と小場は性格がまったく反対で肌合いもずいぶん違っていたのだが、仕事の面では小場は斎藤を高く買っていたのである。人は人を見抜くということなのであろう。
しかし、教授就任の要請を受けた斎藤は煮え切らない態度を示した。実はこの時、斎藤の身体はガンに侵され始めていたのである。
それから二年後の昭和三十年十一月十七日、多彩な才能を誇ると同時に、道なき道を実力で切り開いていくというもっとも困難な先覚の道を歩んだ斎藤は、秋田中学以来の親友である石井漠らに見守られながら、世田谷区上北沢の自宅で波瀾に富んだ六十八年の生涯に終止符を打った。葬儀は、山田耕筰が葬儀委員長を務める音楽葬であった。
斎藤の墓は郷里の矢島町龍源寺にあり、矢島町のほか、兵庫県竜野市にも「ふるさとの」の碑が建てられている。
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