わが青春…学びやと共に (4)

駅前校舎

2014年09月01日更新

聖火リレーで秋高祭PR 成功呼んだ手踊り宣伝隊

河村 鴻允(昭和35卒)

 小生が駅前校舎で学んだのは、昭和32年4月から昭和35年3月までの3年間である。当時の全生徒数は1学年から3学年まで男女合わせて千五百数十人で、小生の年次の場合は総勢512人(女子生徒48人)、A組からJ組までの10クラス編成で、その内の2クラスが男女共学である。学校の敷地周辺には、金座街、テアトル、読売ホール、朝倉市場の他に日赤病院などがあり、交通の便が良いことも相まって市民にとっては非常に利便性の高い街並みであった。その一方で歓楽街もあり、学園として不適当な場所としてPTA関係者から移転論が出ていたそうである。


写真1 昭和34年頃の駅前校舎の全景

 校舎は旧歩兵第17連隊の木造兵舎跡であり、教室、部室および合宿所には事欠かなかったが、生徒会総会では女子トイレが少ないとの不満の声が上がっていた。昭和34年頃の駅前校舎の全景を写した航空写真が写真1である。校舎は南側、東側および北側の2階建ての建屋と、北側建屋と南側建屋の間に位置する体操場とで構成されていた。南側建屋は主に2年生の教室および実験室として使われており、生徒会室が1階にあった。東側建屋は校長室、職員室および3年生の教室として、北側建屋は1年生の教室および定時制として使われていた。小生が入学した時には、新入生は出身中学校別に2年生の教室に招集され、先輩諸氏によるオリエンテーションを兼ねた良い意味での吊るし上げを食らったことを記憶している。体操場では新入生と在校生との対面式があり、放課後毎日のように応援団幹部の厳格な指導の下で校歌や応援歌の練習に明け暮れた。この時期に集中的に教え込まれたお陰で、卒業以来半世紀を超えた今日でも校歌、校友会歌および秋高音頭などを忘れずに口ずさむことが出来ている。

 校舎の西側に野球場と陸上競技場が一体となったグラウンドが見える。グラウンドは校舎の敷地に比べて低地となっていた。野球場の北東寄りに野球部などの部室、陸上競技場の南西寄りに屋外競技用備品保管倉庫、南側建屋の南西寄りに合宿所、東側建屋の東寄りに弓道場、北側建屋の北寄りにバレーボールコートおよび部室、中庭に2面のテニスコートがうかがわれる。

 現在の秋田駅周辺の街並みから母校の敷地跡を特定することは非常に難しいことではあるが、校舎およびグラウンドはそれぞれ、現在の秋田市民市場の辺りおよびNTT東日本秋田支店の辺りではないかと思われる。


写真2 聖火採火式
写真3 秋高祭宣伝隊

 生徒会主催の学校行事で特記すべきイベントは、昭和34年9月26日から27日までの2日間にわたって挙行された秋高祭である。この秋高祭を成功に導くため、9月25日に聖火リレー走者と秋高音頭手踊り要員で構成された総勢二百数十人の宣伝隊を市内に繰り出すこととした。聖火リレーのルートは母校の歴史的変遷に伴う校舎移転地跡、在校生の姉妹の多くが通学していると言われていた秋田北高および聖霊高校の所在地を考慮に入れて設定した。この日には台風15号(伊勢湾台風)が和歌山県付近に接近していたため、生徒会役員一同はその実施に非常に気を揉んだものだった。聖火採火式(写真2)が東根小屋町(現中通5丁目)の旧秋田医学校跡地で、村岡一郎校長先生、発煙式トーチを作製した化学部員および生徒会長を務める小生との立ち会いの下で行われた。点火された聖火トーチを持った小生は、駅前校舎の玄関前までの約3Kmの距離を走破して次の聖火ランナーにバトンタッチしたまではよかったが、ぶっつけ本番で走ったため貧血状態になり、宣伝隊員送迎用バスの中でしばしの休息をとったという不甲斐ない思い出もある。

 市内数か所の聖火リレー引き継ぎ地点では、白ズボンと半纏を羽織った粋ないで立ちの女子生徒とユニフォーム姿の男子運動部員による秋高音頭の手踊りを披露した(写真3)。この宣伝が功を奏してか、当日は秋高名物のデコレーション展示教室、各種文化部の紹介展示室および演劇舞台が設けられた体操場などは超満員となるほどの大盛況ぶりであった。中でもデコレーションでは、冷戦危機の時代に代表される政治外交の風刺、当時人気のあった日活映画俳優のアクションシーン、未来の宇宙開発および科学の発展など苦心の作品を出品し、ご観覧いただいた方々から高い評価をいただいた。昭和34年度に挙行された秋高祭が、校長先生をはじめ在校生全員の英知、努力および協力により成功裏に無事終了したことが、昭和35年3月発行の生徒会誌「羽城」11号に報告されている。

 終わりに臨み、期せずして秋高創立百四十周年記念誌に執筆者の一人として参画出来たことに感謝し、母校のますますの発展を祈念してペンを置かせていただく。


昭和26年3月26日付 秋田魁新報

昭和26年の男女共学化初年度、女子生徒の合格を伝える新聞記事より
〈…なお秋南高では女子35名受験者中27名が合格した。〉

河村 鴻允 (S35卒)

河村 鴻允かわむら こういん さん (S35) プロフィール

秋田大学卒。工学博士(東工大)。
昭和39年秋田大学鉱山学部電気工学科助手を振り出しに講師、助教授。
米国コネティカット大学客員準教授、秋田大学医療技術短期大学部教授、同大医学部医学科教授などを経て、平成19年退職。秋田大学名誉教授。