文武両道…若かりし日々 (1)

陸上競技部

2014年09月01日更新

初の母校五輪代表選手 鈴木重晴先輩の足

長野 佳司(昭和29卒)

 

 昭和26年4月、私は新制高校として秋田中学から改称した秋田南高校に入学した。中学3年の時の全県中学陸上砲丸投で3位だったので、陸上競技部に入部を申し入れたところ、「5月の中央地区大会の成績を見てから」との返事が返ってきてびっくりした。結局、同大会で私は砲丸投・円盤投・槍投の3種目とも1位になり入部が許されたが、「マネージャーもやれ」という条件が付いたのだ。

 3年生は短距離の武田孝男さん、中長距離の鈴木重晴さんに相沢進さんの3人、2年生も4、5人しかいなかったのに新入部員は9人であった。顧問の先生がグラウンドに来ることもなくコーチもいなかったので練習内容は先輩たちが作った。練習場所は新装なった公認県営陸上競技場(現在の秋田大学グラウンド)で、駅前校舎から歩いて通っていた。そこは他校の陸上競技部のほか母校ラグビー部の練習場所でもあり、各校各部が入り乱れていつも活気にあふれていた。そんな雰囲気のなか全員での基本訓練に続いて種目別の練習、さらに個人練習を自主的に行うのが日課であった。

 武田・鈴木の両先輩の練習は、既に全県トップの位置にいたのでさらに前進するためとことん自分を鍛えぬく毎日で、終わってからの足もみは新入生の役目だった。その中でも鈴木先輩の足の美しさは見事なものだった。たっぷり走った後のふくらはぎの筋肉は、手で触ってみてもそれと分からないほど柔らかく弾力があり、その色はチョコレート色でまさに黒光りしていた。いったん走り出すと流れるような足運びと蹴りでスピードを上げていく見事なストライド走法で、サラブレッドさながらの走りだった。わずか1年のお付き合いではあったが、以後先輩の名声が高まるにつれ、一緒に練習した後の足もみを自慢できることは後輩としてありがたいことである。

 鈴木先輩は市内楢山の築山小学校向かいの歯医者(伯父)から通学していて将来は歯医者を目指していた。戦後の新教育制度(六三三制)に変わる直前の昭和21年、秋田南高校併設中学に入学、野球部に所属していたが高1の5月、名物の新屋大橋折り返し全校マラソンで敗れた悔しさから陸上に転向した。短距離から長距離まで何でもこなすオールマイティであったが、途中からより力を発揮できる中距離に絞り込んだ。それが3年生で開花、400mと800mで全県・東北大会ともに優勝、夏のインターハイでは両種目とも3位入賞、秋の東西対抗400mで初めて全国優勝した。


日独米国際陸上(西独・カッセル)800 mで日本新記録を樹立。
中央が鈴木重晴氏(昭和30年9月3日)

 卒業後は先輩の国体400m優勝者高橋慶治氏(昭和16卒)の助言で早稲田大学に進学し競走部に入部した。早稲田進学後は在学中の4年間に中距離4種目(400m、800m、1000m、1600mリレー)で日本新記録を樹立するなどめざましい活躍を見せた。このうち800mの1分51秒8の記録は3年時の昭和30年、ドイツのカッセルで行われた日独米国際陸上でたたきだしたものだ。これらの成績が評価されて鈴木先輩は翌昭和31年のメルボルンオリンピック日本代表に選ばれた。オリンピックでは得意の800mと1600mリレー(4×400m)に出場、惜しくもメダルには届かなかったが、初のオリンピック代表選手として母校の歴史にその名を刻んでいる。


メルボルン五輪日本代表選手に選ばれる(昭和31年)
(前列右が鈴木氏)

 また、鈴木先輩は早稲田在学中、箱根駅伝にも4年連続で出場し総合優勝1回、区間賞2回を獲得するなど中距離から長距離までこなす天才的ランナーとして鳴らした。こうした華々しい活躍は後輩のわれわれにとっても鼻高々であった。


早稲田大学競走部時代(昭和30年)

 社会人になってからも鈴木先輩は中村監督の下で長年コーチをされた後、昭和61年から平成15年に喉頭がんの手術で声帯を失うまで、17年間にわたって早稲田大学競走部の監督を務められた。この間、とりわけ大学駅伝の隆盛に力を尽くされた一方、秋田県出身の長距離ランナーの育成にも大きく貢献された。

 鈴木先輩はこれまでOB会会報に数回寄稿されており、その中で旧17連隊兵舎の建物を使っての合宿は快適ではなかったが実に楽しいものであったこと、長靴を履いて雪道の町の中を走り回る冬期間の持久力強化練習はきつかったが、以後の足腰の強化には非常に有効であったことなどを紹介していた。

 その鈴木先輩は平成20年のOB会総会に東京からわざわざ参加され、筆談ではあったがお元気な姿を見せてくれていた。しかし、平成24年2月27日、脳梗塞のため78歳の生涯を終えられた。鈴木先輩の存在は陸上競技部の誇りであり、これからもわれわれ後輩の胸にずっと生き続けることであろう。

 ところで、秋田高校陸上競技部OB会について少し触れておきたい。池田康夫先輩(昭和12卒)の記憶に基づく名簿のメモによると、OB会の最初に名前が書かれている先輩は大正15年卒の宇佐美盛志、藤林太一郎、島田力の3氏で、昭和3年卒の村山多七郎、明石七太郎の2氏が続き、これらの諸先輩たちは柔道やラグビーにも関わりながら陸上競技の大会に出場していたようである。

 正式に陸上競技部の形となったのは昭和5年あたりからと思われる。OB会ができたのはずっと後のことで、池田先輩が教員仲間の先輩からの発案を形にして昭和47年に設立総会を開いた。それ以来、数回の中断を経て現在につながっており、平成17年からはぐっと若返った幹事団で運営している。毎年総会を開催しているほか現役も巻き込んで会報を発行。大きな金額ではないが、母校後輩たちの活動資金の一助になればと毎年援助金も拠出し続けている。最近の10年ほどは1学年当たりの部員数は10人前後、3学年あわせると30人を超え、加えて女子の加入と活躍もあり、変わりゆく母校の後輩たちの活躍を見聞きするのは実にうれしいことである。

(写真は鈴木重晴氏の長女雅子さんに提供していただきました)

長野 佳司 (S29卒)