東日本大震災 (2)

2014年09月01日更新

大震災と原発事故 人と人のつながりを実感

矢内 大丘〔昭和36卒・矢内(鈴木)健之長男〕

 私の父は秋田高校の卒業生の矢内(鈴木)健之である。幼い頃から秋田高校で過ごした頃の懐かしい話を聞かされて育った。今回、父の代わりに平成23年3月11日発生の東日本大震災とそれに伴う東京電力福島第一原子力発電所の事故について書くこととなった。あの震災の記憶は心に深く刻み込まれている。


2列目中央が故矢内健之氏、前列右が筆者

 福島県双葉郡川内村は東京電力福島第一・第二原子力発電所から直線距離で20kmから30kmの位置にある。阿武隈高地ののどかな山村である。平成23年3月11日の本震は激しい揺れで、寺の本堂も傾き、屋根瓦は落ち、壁も崩れ、参道や石垣の崩落、地割れなどの被害が出たが、津波による被害はなかったし、電気が止まることもなかったのでテレビから情報を得ることができたことは幸運だった。

 しかし、その日の夜から状況は変わっていく。テレビで原子力発電所の異常が流れ始めたのである。地鳴りとともに余震が絶え間なく続き眠ることができない。テレビ画面を見ながらこたつの中で一夜を明かした。夜が明け、とりあえず何かしていないと落ちつかないので、地震による被害の後片付けを始めていた。午後になると原子力発電所のある富岡町などからの避難民が川内村に集まるようになる。私の寺にも知人や親戚など十数人の方が、通常ならば30分もかからないところを8時間もかけて避難してきた。とにかく暖まってもらおうと、こたつやストーブを出し、温かいお茶で一休みをしてもらった。避難してきた方は、心身とも疲れきっているにもかかわらずテレビを食い入るように見つめていた。

 12日午後3時36分、福島第一原発1号機が爆発した。そこにいた誰もが、「そんな馬鹿な」と思った。だが、テレビからは「避難の必要はありません」と同じ言葉が流れてくるばかりである。皆でカレーを食べ、早めに布団で休もうと寝具の準備をしていた。そこにテレビで福島第一原発から半径30kmまでの距離に避難指示が出る。私の住んでいた所は原発から直線距離で21kmしかない。さらに遠くへ避難すべき状況になり、避難してきた方は各々の知人親戚を頼って、また散り散りに避難していった。私も親戚4人と一緒に福島市の親戚の家へと避難することになる。その時はとにかく急いでいたし、すぐに戻れると考えていたので、身の回りのものだけで避難した。福島では水や食料がなく、給水車にも並んだ。放射能に追われて逃げるなどというのは映画の中だけの話だと思っていたが、いざ現実となり、後ろから追いかけてくるのは死をもたらす雲なのだと思うと恐ろしかった。

 福島でほっとしたのもつかの間、今度は3号機が爆発した。どこにいっても給油できなかったため、ガソリンがなくなるのではないかという不安の中、さらに会津美里町の親戚宅へと深夜避難した。しかしますます状況が悪化していくため、大阪にいる親戚を頼り9人で新潟空港から大阪空港へと向かうこととなる。新潟空港はロシアや中国へ帰る人たちでごった返していた。荒天の中飛行機が飛び立ったときの安堵感は忘れられない。「助かった」そう思った。飛行機が大阪に着いたとき、ネオンが輝き、スーパーには品物があふれていた。別な国に来たのかと驚いた記憶がある。

 事故から3か月経った頃一時帰宅したが、田畑は荒れ果て無残な姿をさらしていた。帰りにスクリーニングを受けたとき、その場所には自衛隊の装甲車が並んでおり、警備の厳重さに改めて事故の重大さを思い知らされた。頭の上から靴の裏まで調べられ、係の方から「大丈夫です、汚染はありません」と言われたときは、ほっと胸をなで下ろした。1年ほど大阪市で避難生活を送り、現在はいわき市の仮設住宅で暮らしている。

 今回の震災とそれに伴う避難生活の中、本当にいろいろな方にお世話になっている。人と人のつながりによって助けられた。普段の生活では当たり前のことが当たり前でなく、いろいろな人に支えられて成り立っているということが改めてよくわかった。ありがたいことだと思う。原子力発電所の事故は現在も継続し、放射性物質への対応など問題は山積している。福島の未来がどう変化していくかは未知数であるが、今回受けた感謝の思いを忘れることなく、これからの人生で少しずつお返ししていきたいと考えている。

(大震災・原発事故について矢内健之氏に書いていただく予定でしたが逝去されました。ご子息のご厚意により寄稿していただきました。)

故・矢内(鈴木)健之

故・矢内(鈴木)健之やない たけゆき さん プロフィール

昭和36年秋田高校卒卒。駒沢大学地理学科卒。工学院大学卒。地図製作会社勤務を経て、福島県川内村・長福寺住職。平成21年秋逝去。