同窓会支部活動 (4)

若菜会

2014年09月01日更新

男女共学から生まれた「若菜会」

秋山(丹内)まり子(昭和29卒) 

 昭和23年4月、学校教育法の施行によって、母校は新制高等学校として新たな歴史を歩んだが、男女共学になったのは昭和26年4月であった。当時の様子を深井博之先生は「同窓会だより」第6号(昭和53年6月発行)に次のように書いておられる。

 昭和26年春の卒業生は、東大に16名という大量の合格を出して学校を驚かせたが、もう一つ画期的なことは共学の実施である。中川秀松校長が、入学試験合格者選考事務が終わる段階で補欠30名をとった。これは共学となるのに女子30名を入学させるというのに相当した数で、一律に合格者として発表するために急いで相当者を調査させられた覚えがある。4月高橋一郎校長となって初めて共学が実施された。実施といっても校舎は半ば建築中で、教室は新しい管理棟から離れた旧兵舎、雨が降れば傘をさして授業に行かなければならず、便所の一部が女子専用となっただけで、更衣室もない状態だった。共学のための施設設備は皆無、指導教諭がすべて男性で新学期が開始されたのである。……女生徒は才媛ぞろいであった

 さて、私はというと、入った秋高は自由で楽しかった。東京から母の実家に疎開し、いじめにあったり、嫌な思いも多かっただけに秋田高校の伸び伸びとおおらかな校風はうれしかった。

 担任の深井先生はとても温かく許容力のある方で多少の悪いことも大目に見てくださる度量があり、お蔭で私はそれ以上悪いことをしないで難しい年頃を過ごすことができた。

 学校でも最初の女子ということで随分気を遣ったと思う。女子卒業生名簿「若菜」(昭和53年発行)に初めて女子の先生としていらした佐藤カツ先生は次のように書かれている。

 25年間お勤めした秋田北高を退職し、その思い出に浸っていた時、中山健先生、高橋一郎先生から秋高女子生徒のために、ぜひともとお話があり、全く自信なきまま、6月頃と思いますが、秋高にまいりました。……特に女子1期生の方は共学組として隔離教室(旧17連の兵舎の建物)におりました。外に出るたびに、本校舎2階から当時の3年生(昭和27卒)から好奇の目で見られ、共学の男子とでも歩こうものなら散々にヤジられ本当にかわいそうでした。私の仕事は1500の男の中での28名に対し過ちのないように、女らしさを失わないようにと、殺風景な校内に28輪の花として行動するよう指導することでした。さすが選ばれた方々で、よくわかってくださいました

 カツ先生は、いつも温厚で、ひっつめ頭のお顔が思い浮かぶ。2年生になり担任は山下三喜男先生だった。先生もずっと変わらず今も、奥様とともに親身になって心配してくださる。

 「若菜会」発足について同窓会だよりの深井先生の文は続く。

どこの家庭でも大抵長女はおとなしく次女は活発である。共学が全学年に亘った秋頃から女子だけの会の結成必要の声が2期生の中からぽつぽつ出始めた.『女子の人数が少なく、女子特有の問題もあるのに、生徒会でなかなか取り上げてもらえない』……そして遂に昭和29年2月、最初の卒業生を送り出す直前、若菜会が職員会議で認められ誕生したのである


若菜会の送別式(昭和31年冬、駅前校舎音楽室)
 

 佐藤康子さん(昭和31卒)は「若菜」に若菜会という名称は女生徒から募集して互選で決めたのではなかったか。……初代の会長が村山幸さん、2期が柳原和枝さん、3期が武田周子さん、4期が畠山洋子さんではなかったかと書いている。その後女生徒の数が増え、共学が定着し、女子だけの会の必要性が薄れたこともあって、激論の末、昭和48年在校生の若菜会は消滅した。その後秋高女子卒業生の親睦の会として昭和51年同窓会支部若菜会が再出発し、代表幹事を秋山まり子が務めた。その後、紆余曲折はあったが、最近の状況について平成21年7月の同窓会だよりに40年卒の吉田慶子さんが次のように記している。若菜会は昭和29年卒の女子1期生から昭和45年卒の女子の会です。……今回(の若菜会)は前回から7年ぶりに行われたものです。……今後も女子の親睦団体として存続させるということで、満場一致で可決しました。直近では平成23年10月に昭和41年卒の方々が幹事で若菜会が開催されたが、楽しい充実した会で皆さんのお話が魅力的だった。現在、学校に若菜会があった昭和45年卒まで幹事が決まっている。その後の存続についてこの次の若菜会で結論を出すことになっているが、気楽で楽しい「女子会」として存続してほしいと願う。母校のますますの発展を願い、柔らかい発想で考えていければと思う。

秋山 まり子 (S29卒)