塩田 団平 (しおただんぺい)

秋田の代表的な経済人

2014年02月21日更新

八代目団平

 平鹿郡雄物川町沼館(旧沼館町)に蔵光院というお寺があるが、三百年ほど前、ここの中興開山と言われた宥受和尚が、同町館合の小柳家から二男をもらい受けて寺の子とし、後に寺の分家として独立した人がつまりは初代塩田団平だという。

 初めは小柳団平と称していたが、のち宥受和尚の生国伊勢の塩田の地名にちなんで塩田と改姓したものであった。

 現在でも塩田家と蔵光院に残されている分家書き付けによると、譲られたのは伝家の宝刀と田地三十刈(約十アール)だけであったというから、塩田家は最初から素封家であったわけではない。

 ただ、その書き付けには「子々孫々に到るまで精励し、よくその一粒を万倍にすべし」と添え書きされており、代々の団平がその家訓をよく守って努力したので、本稿の主人公である八代目団平のときには、県南でも有数の大地主になっていたのである。

 その八代目が生まれたのは、明治十四年(一八八一)四月一日である。七代目の長男で、幼名を重三と言い、三人の弟と四人の姉妹があった。

 あこがれの秋田中学に入学した塩田だが、明治三十年夏、奈良磐松の項で詳述したストライキに巻き込まれて中途退学を余儀なくされてしまう。

 東京の私立中学を出た後、官立東京高等商業学校(一橋大学の前身)で学んだ塩田は、明治三十六年にそこを卒業すると二年ほど東京で商社勤めをした後、父親の病気にともなって三十八年には故郷に帰ってくる。それが素封家の長男としての務めだったのである。

 四十一年、父親が死去し、塩田は八代目の団平を襲名した。

 挙措動作も控えめで経済実務型といった印象の塩田の公的スタートは四十五年に秋田農工銀行の取締役に就任したことにあるようだが、初期の活動の中心は経済よりも政治の分野であった。

 早くも大正二年(一九一三)には三十二歳の若さで沼館町長に当選し、これは昭和二十一年(一九四六)二月まで続く。実に三十四年間連続の在任である。二三七ヘクタールを所有する県南でも有数の大地主という背景もあろうが、やはり塩田の飾らない人格や高い識見が根強い支持を受けたのであろう。

 この間、大正八年には県議会議員選挙に立候補して初当選、十二年には再選も果している。

 翌十三年三月の総選挙に、塩田は第七区(平鹿郡、雄勝郡)から憲政会公認で出馬、みごとに当選して初めて代議士の座を射止めた。

 昭和三年二月に行われた選挙は、有権者の納税義務を撤廃して二十五歳以上の男子すべてに選挙権が与えられるなど、わが国最初の普通選挙と言われるもので、選挙制度が大きく変わったこともあって塩田は次点に甘んじたが、五年の選挙では返り咲いて二期目の代議士を務めている。
 また、十四年からは多額納税者として貴族院議員に選ばれ、終戦で貴族院が廃止されるまでその職責を全うした。つまり、塩田は最後の貴族院議員だったのである。

 育ちのよい塩田は、大向こうの受けだけを狙ったような派手な政治活動はしていないが、やるべきことは、まず足元を固めて着実に実現していった。

 例えば、昭和初期、農村の疲弊を憂え、農村を救うにはその中核となる青年の育成が急務だとして、昭和四年四月、沼館農学校を私財を投じて設立したことなどを挙げることができるし、雄物川下流域の土地改良事業なども塩田の指導力に負うところきわめて大である。

羽後銀行とともに

 時代は戻るが、植田銀行は、明治三十年に近合名会社として十文字町に発足したものであった。塩田が近氏のあとを継いでそこの頭取に就任したのは昭和三年である。

 この当時、日本は世界恐慌の荒波をまともに受けており、六年には、青森の五十九銀行、岩手の盛岡銀行でそれぞれ取り付け騒動が発生し、本県でも五業銀行が休業に追い込まれている。

 このとき塩田は、取り付け騒ぎ寸前の植田銀行を私財を投げうって守り抜き、翌七年、羽後銀行(現北都銀行)と合併することによって、預金者の利益を保護することに成功したのである。塩田のこの前後の一連の動きは、塩田に将来にわたる信用を保証し、昭和十八年に三代目の羽後銀行頭取に就任する布石となっている。

 以後、三十六年に会長となって第一線を退くまでの十八年間、塩田は単に羽後銀行の頭取としてだけでなく、秋田県を代表する経済人の一人として多方面にわたって活躍、多大の功績を残したのであった。

横荘鉄道への情熱

 塩田で忘れることのできない大きな業績の一つに横荘鉄道がある。

 すでに述べたように、県南に居住する人々にとって、日本海側と太平洋側を結ぶいわゆる奥羽横断鉄道の開通は長い間の夢であった。

 最初に、横手と黒沢尻(現北上)を結ぶ横黒線(現北上線、大正十三年開通)の実現をめざして、秋田、岩手の両県有志が明治三十九年から猛運動を始めたところ、鉄道院は横手・本荘間の軽便鉄道でもあれば奥羽横断鉄道にも取り組みやすいとの意向を示したので、それならばと、横黒線に先立って発足したのが横荘鉄道である。大正五年十月のことであった。

 初代社長は由利側の先輩代議士斎藤宇一郎で、沼館と本荘の双方から工事が進められた。

 大正七年八月にまず横手から沼館までが開通、さらに館合を経て大森まで通ったのが九年春、その後、十一年に本荘・前郷間、昭和三年に大森・二井山間、五年に二井山・老方間がそれぞれ開通した。

 しかし、昭和初期の農村不況に遭って資金面から全面開通の望みが絶たれ、横荘西線は、昭和十二年に政府に譲渡されて矢島線となり、それがさらに第三セクターによる現在の由利高原鉄道へとつながってくる。

 直線で最短距離をというのが鉄道を敷設する際の常識だが、横荘東線は、横手を出た後まず沼館への湾曲コースをとり、さらに逆S字形に館合へ迂回するという大変な蛇行鉄道であった。

 これは、沼館の塩田団平、先述した館合の土田萬助の両実力者の意向に配慮したためと言われ、今日まで残る〈団万鉄道〉というニックネームの由来となっている。

 横荘鉄道は、昭和十九年に羽後鉄道と改称されるが、二十三年九月十六日に来襲したアイオン台風で老方・二井山間の線路が山崩れの土砂に埋まって復旧不可能となり、三十七年には鉄橋流失で大森までの路線を廃止、四十六年ついに横手・老方間が全線廃止になる。

 現在は横手・沼館間(羽後交通の経営)のみとなり、それもバス輸送に変わっているのは周知のとおりである。

 塩田にとって、この横荘線は見果てぬ夢だったようで、この夢の完結を期すためであろう、先に廃止になった老方・二井山間の路線敷のうち、雄物川町内の二井山・浮蓋峠間を羽後交通から買い取り、これを「浩一紀の林道」と名づけて沼館森林組合に寄付している。「浩・一・紀」は、塩田より先に逝った長男・長姉・末弟それぞれの名前にちなんだものである。

 昭和三十五年十月、塩田団平翁顕彰会の手で塩田家発祥の蔵光院に八代目団平の胸像が建立されたが、それから二年後の十一月、心臓障害のため秋田市にあった県立中央病院に入院、翌三十八年四月十六日、八十一歳で鬼籍に入った。

柴山 芳隆 (S36卒)