池田 謙三 (いけだけんぞう)

鉱業開発の大先達

2014年03月14日更新

鉱山の申し子

 池田謙三は、田子内鉱山(雄勝郡東成瀬村)の経営に全財産を投じ、近代的な施設設備を導入して全国の注目を浴びた池田孫一(一八五三~一九二二)の子として、明治十五年(一八八二)九月ニ十日、秋田市南通亀の町(旧中亀ノ町)で生まれた。

 謙三が秋田師範附属小学校から秋田中学に進んだころは、父の鉱山事業発展の時期で、謙三も田子内鉱山にはしばしば連れていかれた。謙三の描く自分自身の未来像は、そうした中で自然に形作られていったようである。

 秋田中学を明治三十三年に卒業した池田は、京都の官立第三高等学校(京都大学教養部の前身)を経て、東京帝国大学工学部の採鉱冶金学科に進学する。三高時代はボートの選手として活躍し、大学に入ってからは非鉄金属冶金を専攻した。

 四十一年、池田は大字卒業と同時に、大阪に本社のある藤田組に入社し、技師として秋田県の小坂鉱山に赴任する。

 池田はまず溶鉱炉の問題に取り組み、その現場作業の能率化を計画して、炉付きの八時間労働制を断行する。これは、わが国精練所で初の三交代制であった。

 その後、池田は島根県の大森鉱山、岡山県の帯江鉱山と転勤するが、大森鉱山では新式溶鉱炉や製錬所、選鉱場等を建設し、帯江鉱山時代には、設備改良の研究を進め、大正三年(一九一四)に同県犬島に新設されることになった藤田鉱業の中央製錬工場の設計に携わる。

 この中央製錬工場は、当時国内唯一の「含銅硫化鉄鉱」の製錬所で、その製錬法は生鉱吹と呼ばれる最新の技術を取り入れ、その生産量とともに海外にも誇るべきものであった。

 こうして池田は、冶金技術者として、また銅製錬法の研究者として着々と実績を上げ、日本鉱業界でも注目される人物となった。

 こうした状況を受け、藤田鉱業もその技術と研究をいっそう深める目的で、池田を大正六年五月から一年三ヵ月にわたってオーストラリアとアメリカに長期出張させる。

 池田は最初オーストラリアで銅鉱山地帯を視察し、アメリカに渡ってからは鉱業技術の現場を見学するとともに、専門の研究者、学者、政治家など多くの人々に接して自己の知識と見聞を広めることに努めた。

二度目の小坂鉱山

 帰国した池田は、冶金課長としてふたたび小坂鉱山に赴任、ますます研究に励んで、銅鉱の生吹法と製銅転炉方式においてさらに画期的な成功を収める。

 池田はこれを基礎にして「本邦銅鉱乾式製錬法」と題する研究論文を母校である東京帝大に提出、大正十一年、それが認められて工学博士の学位を取得したのであった。

 池田の学位取得をもっとも喜んだのは父の孫一であったが、その喜びもつかの間、孫一は突然病を得て、あっけなくこの世を去ってしまった。七十歳であった。

 博士号を得た池田は、東北帝国大学の要請を受け、藤田組に在職のまま大正十四年からは同大学の講師として銅冶金学の講座を担当した。

 鉱山の技術者、研究者としては順調な道を歩んでいた池田だが、この後、思わぬ問題に直面することを強いられる。続発する労働争議である。

 第一次世界大戦後の社会不安のなかで、各地の工場や鉱山では大小の労働争議が頻発した。小坂でも大正八年に一回目の大規模な争議が発生し、これは、池田が奔走して解決に導くが、四年後の十二年にはまたまた大規模な争議に見舞われる。

 このときは前回よりはるかに強硬な要求が労働者側から出され、鉱山幹部の中には誰一人として真正面から事態に対処しようとする者がいない。

 そうしたなか、池田は率先して交渉に当たり、なんとか未曾有の大争議の終結にこぎつけるが、後に本社から、職権を越えた言動があったとして責任を問われる。

 苦境に立たされた池田は、同年九月に小坂を去って大阪で勤務するが、これは現場技術者としての生活の終わりを意味するものに他ならなかった。

 苦悩した池田が最終的に会社生活に別れを告げたのは、昭和三年(一九二八)三月のことであった。

学究生活

 退職後の池田は、以前から講師を務めていた東北帝大の教授に迎えられ、自身の研究と学生の指導に明け暮れすることになる。担当は非鉄金属冶金講座である。

 東北大の在職は七年間だが、この間に、それまでの研究を集大成した上下二巻の大冊『銅製錬』を刊行している。

 科学技術審議会の委員に任命された翌年の昭和十年四月、池田は迎えられて母校東京帝大の教授となり、今は亡き恩師の跡を継いで冶金学第一講座を担当することになった。

 時はあたかも満州事変から日中戦争へと進み、生産増強にともなう科学技術の振興とそのための技術者養成が求められて、東大でも第二工学部を増設する。池田はその設立準備委員として協力するとともに、十七年からはその第二工学部の冶金学科の講座の指導も担当した。

 他方、時を同じくして北海道帝国大学工学部でも生産冶金学科創設の計画があり、池田はそれにも参画して、その実現とともに同十七年から北大講師も兼務する。

 国内あげて戦時体制のなか、鉱山業界もこれに呼応協力することになり、鉱山事業家、技術者、研究者を一丸とする日本鉱業会が組織されて池田はその会長にも推される。

 十八年に東大の方は定年退職となるが、それと入れ替わりのように北大の方は教授に任命された。

 その後まもなく、池田は秋田鉱山専門学校長に就任するよう要請され、北大教授兼任のまま、第五代目の校長として着任する。

 こうして、北海道、秋田、東京を駆けめぐる池田の多忙極まりない日々が二十年の八月十五日まで続いたのであった。

秋田大学の生みの親

 終戦後、新制大学設置の方針が決定し、秋田鉱専、秋田師範ともに昇格する段取りになったが、鉱専の関係者の間では、大正七、八年頃、単科大学の昇格運動を起こしたが実現しなかった経緯もあったので、その卒業生で組織する〈北光会〉が、今度こそ念願達成の好機と立ち上がり、全国的運動を始めた。

 地元の県当局、県選出国会議員も協力し、鉱山関係者もあげて政府に働きかけ、鉱専と師範それぞれの単独昇格による二大学設置案を強力に打ち出した。

 特に、鉱専は、過去の大学昇格運動の歴史、専門領域の特殊性、設備の充実度から、自他ともに単科大学構想に応ずるものと認められていたから、池田も、最高責任者として強硬に文部省当局に立ち向かったが、当局側は「一県一大学」という方針を堅持して譲らず、結局、昭和二十四年六月一日に秋田大学の開学が正式に決定、鉱山学部と学芸学部からなる総合大学としてスタートすることになったのであった。

 七月に新制秋田大学学長事務取扱に任じられていた池田は、八月二十五日秋田大学第一期生の入学式、十一月十五日には開学式をそれぞれ滞りなく挙行して、翌二十五年三月にその職を退いた。

 池田が学長に就任できなかったのは、単科大学を強く推し進め過ぎて、GHQ教育顧問のイールズ博士や文部省当局に敬遠されたためと言われている。

 秋大退職後の池田は、県の要請で秋田県地下資源開発委員会の嘱託となり、豊富な埋蔵量を誇る県内の地下資源開発への努力を惜しまなかった。

 晩年近くになって、黒鉱ブームに湧く花岡、小坂を訪れた謙三は、かつての職場だった製錬所が、新式の製錬法によってすっかり生まれ変わった盛況ぶりを見て、懐旧の情に耐えない面持ちで、「実に、小坂、花岡は日本鉱業界のメッカである」と語ったという。

 池田は、専門の研究とともにあらゆる分野の書物をよく読み、哲学、宗教などにも造詣が深かった。アジア人初のノーベル文学賞受賞者であるインドの詩人タゴールと面会し、その人格に深く感激したという。

 すぐれた技術者であると同時によき指導者でもあった池田は、科学技術についてもよく発言し、技術を用いるのは人間である。従って、人間の道こそ科学技術の本道だとして、みずから人間達成の道を探究している。

 昭和十八年には、「技術の術は道である」として、『技道』という随筆集を出し、その後さらに、若い人への指針として二十三年に『人間工学』という一書も著している。

 二十五年十一月、池田はカトリック信者として洗礼を受ける。直接的には夫人の勧めによるものであったが、自分の長い人生を静かに振り返り、聖なる道を求めて信仰生活に入ることを決意した結果であった。

 入信して三年目の昭和二十八年十一月九日の朝、池田は七十歳でぺ卜口池田として神の国に召された。

柴山 芳隆 (S36卒)