田所 哲太郎 (たどころてつたろう)

二つの博士号をもつ大学人

2014年04月11日更新

秋田北盟寮の生みの親

 郷土地理学のパイオニア小田内通敏の甥にあたる田所哲太郎は、明治十八年(一八八五)九月二十七日に、銀行員田所直道の長男として秋田市で誕生した。

 保戸野尋常小学校時代は勉強や読書が大好きであった反面、身体が虚弱で、小使いさんに送られて帰宅したこともあると述懐している。そうしたことが、後年、田所がスポーツに関係し、晩年に到るまでボディビルに親しむ素地をつくったようである。

 明治三十七年に秋田中学を卒業した田所は、内村鑑三や新渡戸稲造らの思想家を輩出した札幌農学校に憧れて同校予科に進み、さらに東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学農学部。北大独立前の名称)農芸化学科に進学する。そして、四十三年に銀時計組の一人として卒業すると同時に同大学の助手として研究生活に入り、翌四十四年には助教授に昇格した。

 大正七年(一九一八)から二年間、田所はシカゴ大学の化学学科、物理学科に留学するが、滞米中、アメリカの学生たちが寮生活によって大学生活をエンジョイしているのを見てとり、帰国後、札幌に学生寮を建設する運動に取り組む。

 田所のそうした努力によって大正十二年八月に竣工したのが秋田北盟寮で、これは、何度か改築を経ながら平成十年の閉寮まで存続した。この間に六百数十人を世に送り出したが、入寮者の半分以上が、秋田中学・秋田高校の卒業生であった。北盟寮を巣立った学生のうちの三十名が北大など、国内外の大学の教授になっているという。

 田所は秋田寮の生みの親であると同時に育ての親でもあり、郷土の学生に対する慈愛に満ちた深い思いやりから、現職の県立秋田高等女学校(現秋田北高校)教諭石橋常世を寮母に迎えて情操教育に取り組んだのも、未だに関係者の語り草になっている。

 北大における田所のような人物が東北大にはいなかったと今でも時おり東北大関係者から洩れたりするのもむべなるかなと言えようか。

二つの学位

 さて田所は、当時、寒さには強いが味がいま一つと言われていた北海道産米の改良に取り組むなかで、米たんぱく質の化学構造の違いに注目、この研究によって大正八年にまず農学博士の学位を取得し、十年には、三年前に誕生していた北海道帝国大学の教授に昇進する。

 その後田所は、植物細胞のニカワ質の研究に没頭し、その研究成果によって昭和三年(一九二八)に今度は理学博士の学位を取得、二つの博士号をもつ大学者となったのであった。

 学位論文の分野を出発点として田所の研究は、大豆や海草の生態と繁殖などにも広がっていき、さらに、中心となったタンパク質化学に加えて、酵素化学、栄養化学等の分野での数多くの貴重な業績へとつながっていく。

 そして、それらの成果を実地に応用して人間の生活と健康に役立てるなど、生物化学全体の発展に大きな貢献をしたのであった。

 大正が終わって昭和と改元されたころ、東京、京都、東北、九州、北海道と五つの帝国大学があったが、このうち理学部が設置されていたのは、東京、京都、東北の三大学だけであった。

 北大にも理学部をという機運が高まり、その設立運動が活発に展開されていたころの昭和四年、パリにおいて理学部教授候補者会議というものが催され、田所はそれに出席するが、その折、踊り子の絵を買って帰り、会議室に飾った。

 後年、雪博士として有名な中谷宇吉郎北大教授をして、「踊り子の絵を会議室に懸けている大学は、日本では北大の理学部だけでしょう。このような闊達な雰囲気から良い研究が育つのです」と言わしめたと伝えられている。

 ちなみに、その絵は、現在も教授会が開かれる会議室に飾られているという。

 昭和五年、北大に理学部が創設されると同時に田所は農学部から理学部に配置転換となり、翌年三月には理学部長に選ばれて、草創期の六年間、北大理学部の基盤確立のために尽力する。

 学内における各種施設設備の充実のほか、昭和六年には厚岸臨海実験所、八年には室蘭海藻研究所を発足させるなど、北海道と関わりの深い分野の研究施設の充実にも意を用いた。

 また、郷里の同窓で親友の、大森町出身アラビヤ太郎こと山下太郎から、戦前、莫大な資金の提供を受けて、理学部そばに山下生化学研究室を設立して、多くの弟子を教育したのも記憶に残るところである。

 話はさかのぼるが、田所が秋田中学に在学中、イギリス帰りの武田千代三郎知事が、オックスフォード大学の古いボートを買い取り、秋田中学でボートレースを試演させた。たまたまこの時、田所がトップを漕いだ。その経験が、田所が北大理学部長時代にボート選手を育てることにつながり、北大は今でもボート競技の強い大学として知られている。

 その後、田所は北大のスケート部長、アイスホッケー部長なども務め、日本スケート連盟の副会長職を襲ったりしている。

 昭和二十四年定年退官となり、これらの多くの研究功績にたいして、北海道大学名誉教授の称号が与えられた。

北海道開発の偉大な功労者

 太平洋戦争後の昭和二十四年、学制改革によって四つの師範学校を統合して北海道学芸大学(現北海道教育大学)が設立されると田所は初代学長に選ばれ、八年間その職を務める。

 田所は、道内のみならず、全国各地をまわって優秀な指導者を招聘し、新設大学の地位の向上、学問研究と教員養成の調和などをはかるとともに、北海道の広大さを考慮して分校を設置することを提唱し、札幌以外に旭川、釧路、岩見沢、函館の各地に分校を開設した。

 それらは現在、大学としての独自性を発揮しながら、それぞれの地の文化的発信源として発展しつつある。

 北教大を退いた後、国立帯広畜産大学の学長に選任されて北海道の主要産業の一つである畜産の研究と技術の向上に貢献、さらに三十八年には北海道女子短期大学の学長に就任して女子教育にもあたった。

 持ち前のアイディアを次々と実行に移して大学の整備充実に努力するなど、北海道の教育、科学発展、人材育成に果たした田所の功績はきわめて大きなものがある。

 田所はまた、みずからもその創立のために尽力した日本農芸化学会や日本生化学会の評議員を務め、さらに日本化学会会長、北海道科学普及協会会長等にも就任して、学界の発展にも寄与するところ大なるものがあった。

 田所のこうした幅広い功績に対しては、勲二等旭日重光章(昭和四十年)、北海道文化賞(四十一年)、北海道開発功労賞(四十八年)などが贈られている。

 田所は、自分は勉強が好きだし、学問で楽しい生活を毎日送るためにはまず身体を鍛えることが大事だとして、八十歳を過ぎてもなお毎日のようにボディビルに取り組んでいたのであった。

 田所には『酵素化学』『多糖質化学』『蛋白質化学』など専門の化学関係の著書がたくさんあるが、北海道学芸大学長のとき、『歌聖小野小町を語る』を著して話題になったりしている。

 これは、どうせ恋愛などというのは頭だけのことだから、千年前の人にも恋することができるといって書かれたものである。フランス留学中に集めたジャンヌ・ダルクの資料などもたくさんあったということで、田所の別な一面を伝えるエピソードであろう。

 晩年の一時期、田所は静岡県の函南町に居を移しているが、これは、三人の子どものうちの長男がその地で亡くなったので心引かれるものがあったということのようである。

 田所は、自身が四十二歳のときに夫人を失っただけでなく、三人の男子も年若くして父親に先立ち、家庭的にはあまりめぐまれなかった。

 函南では、自然食品に含まれる酵素でガンや公害病を防ぐ研究と、どういう健康管理をすれば不老長寿を得られるかという、人類永遠の大テーマに取り組んで元気なところを見せた。

 田所は、自分に勇猛な精神を育ててくれたのは北海道だと語っているが、第二の故郷であるその北海道で田所が没したのは、昭和五十五年三月ニ十日である。秋田中学同窓の医師に見守られ、愛用したフランス仕立てのタキシード姿で旅立った。享年九十四歳であった。

 故人の遺志により、葬儀は宗教にとらわれずに簡素に執り行われたが、式中は絶えずベートーベンの「英雄」第二楽章が流されたほか、故人が晩年愛した民謡「秋田おぼこ」も紹介されて、参会者一同、故郷を遠く離れて黄泉路に旅立った故人の気持ちを偲んだという。

 田所は、没後直ちに正三位に叙せられている。

柴山 芳隆 (S36卒)