田中 隆三 (たなかりゅうぞう)

文部大臣から枢密顧問官に

2013年11月22日更新

楢山の秀才

 田中隆三は、元治元年(一八六四)十月十五日に、秋田藩士隆世の長男として、秋田市楢山本町(旧秋田郡楢山表町)で誕生した。四年後に明治維新となり、田中家は金照寺山に住居を移すとともに、父親は大曲市(旧大曲町)で代言人を始めた。

 没落藩士の生活は厳しく、幼少年期の田中も貧乏の悲哀を味わい尽くす。食事は日に二度、それも麦飯に菜っ葉汁と漬物、月に一、二度魚がつくといい方だったと伝えられている。

 そのうち父親が心配して、田んぼからドジョウを取ってくるようになり、それを丸ごと煮て家族に食べさせるようになった。ドジョウは田んぼにいくらでもおり、それを取って食べる者などいなかったのである。

 後年、地位を得てからの田中は、来客があると手ずからドジョウを煮て客人に供し、それが田中家の名物の一つになっていたということである。

 さて、田中は築山小学校の前身である楢山学校から太平学校中学科に入学したものの貧しくて教科書もろくに買えず、勉強と言えばまず級友から教科書を借りてそれを写すところから始まるという苦 学を強いられる。しかし、最後まで頑張り抜いて、明治十四年に秋田師範中学予備科を卒業した。町田忠治の一年後輩になる。

 当時は「隆造」と書かれており、「隆三」となったのがいつかははっきりした資料がない。

 成績優秀であったので、町田と同じように県費留学生に選ばれ、晴れて大学予備門に進むことになったが、上京の旅費がままならない。田中は秋田から東京までの六百キロを歩くことに決め、その通りに実行した。まだ奥羽線が開通していなかったので出発時は行動を共にした者もいたが、それらの仲間も途中から思い思いの交通機関を利用して、最後まで歩き通したのは結局田中一人だけであった。

 ちなみに、奥羽線が全通したのは明治三十八年(一九〇五)である。

 東京帝国大学に進学してからの田中の勉強ぶりもすさまじいものであったが、貧窮状態は一向に改善されない。そうした苦学生田中を経済的に援助したのが、秋田市保戸野に住んでいた資産家の小堀藤四郎で、後年、田中は小堀家の娘ナホと結ばれることになる。

 明治二十二年、田中は東京帝大の法科を卒業すると同時に農商務省に入り、参事官室勤務となってエリートコースの第一歩を踏み出す。以後、鉱山局次長、鉱山監督官、衆議院書記官、法制局参事官、鉱山局長、行政裁判所評定官、農商務省次官と昇進は順調そのものであったが、三十八年に重大な転機が訪れる。合名会社藤田組(後の同和鉱業株式会社)への転職である。

小坂鉱山所長

 文久元年(一八六一)に発見され、明治三年から政府直轄となっていた秋田県の小坂鉱山は、十七年に合名会社藤田組に払い下げられ、同社のもとで銀と銅を中心に採掘が進められていた。

 藤田組というのは、南海電鉄、関西電力、毎日新聞などを創立したほか、児島湾の干拓などでも知られ、関西の渋沢栄一と称された藤田伝三郎(一八四一~一九一二)の起こした会社の一つで、後に藤田鉱業株式会社に発展していく。

 明治三十八年当時、藤田組の小坂鉱業所は技術者不足の危機にさらされ、その打開策として、農商務省でも鉱山畑の経験が長い田中に目をつけ、強力にその引き抜きを図ったのである。

 田中にとっては一生に関わる重大問題であったので大いに悩んだのだが、郷里である秋田県の発展のためであればと覚悟を決め、同年十一月に農商務省を辞して藤田組に入社したのであった。

 翌三十九年三月一日、田中は四代目の小坂鉱山所長として現地に赴任した。鉱山の現状を自分の目で見、多くの関係者から直接話を聴いているうちに田中は、鉱山技術者の不足は一小坂鉱山だけの問題にとどまるものではなく、鉱山業界全体、ひいては日本の産業界全体に関わる大きな問題であるとの認識をもつに到った。

 そうした折も折というべき四十年夏に、日本鉱業大会が秋田において開催され、その席上でも、鉱山技術者の養成が急務である旨が声高に論じられたのである。

 秋田県は日本でも有数の鉱山県である。加えて、農業経済学者として一流であるのみならず鉱山学の元祖としても高い評価を受けている佐藤信淵を生んだ土地柄でもある。秋田県に鉱山専門の学校を設立しようとの構想が田中の頭のなかでまとまっていくのにたいして時間はかからなかった。

 田中はまず県庁を訪れて時の県知事下岡忠治に趣旨を説明した後、直ちに上京して東京帝大の和田維四郎教授と意見を交換した。知事も教授も田中の説くところをよく理解し、全面的な支援を約束してくれた。

 下岡知事は早速、敷地は秋田県が提供することを謳い上げ、和田教授は、鉱山学校創立の意義を文部省など関係諸機関に積極的にアピールしてくれて少なからぬ反響を呼び起こしたが、最大のネックとなったのはやはり資金問題であった。

 学校設立には最低でも三十五万円を要する。しかし、意義は認めた文部省や政府も財布の紐はきわめて固い。やむを得ず田中は、まず民間の援助を仰ぐことにして三菱の岩崎久弥に訴えると即座に八万円の拠出を約束、古河の古河虎之助も六万円を出してくれた。

 しかし、順調にいったのはそこまでで、あとはどこも応じてくれようとしない。やむなく田中は、自分の勤務先である藤田組の藤田伝三郎社長を口説き落として残り二十一万円の出資に同意させる。といっても、藤田組にそんな大金の余裕があるわけではないから銀行の援助を受けねばならず、それも田中自身が直接何度も秋田銀行に辻兵吉を訪ねることで実現にこぎつけることができたのであった。

 秋田鉱山専門学校(秋田大学工学資源学部の前身)がスタートしたのは、田中が最初の構想を得てから三年目、明治四十四年四月のことであった。

 全国でも初めての鉱山専門の学校を設立した田中の意識のなかには、鉱山に関することはこれで一区切りという気持ちと同時に、大きな事業を成し遂げようと思えば、最終的には政治的な力が必要になってくるという認識が確立されていったようである。そしてそのことが、官界、鉱業界と生きてきた田中を政治の世界に向かわせる原動力になったと考えられる。藤田組を退職した後に勤めていた大阪商船の取締役という役どころが、田中にとっては閑職であったという事実も多少は影響していたようであるが。

枢密顧問官への道

 田中の衆議院への初出馬は、明治四十五年五月、四十七歳の時であった。第十一回総選挙に立候補したのである。

 藤田組の各事業所など多くの鉱山関係者、親類のように親しくなった辻兵吉など多数の友人・知人の支援を受けて見事に当選。以後も、大正六年(一九一七)、同九年と順調に当選回数を重ねていく。

 所属政党は政友会から政友本党、新党クラブと移り、最終的には民友党に落ち着いた。

 議員として政治活動に忙殺されるかたわら、田中は、自分が奔走して誕生させた鉱山専門学校で一時講師を務めたり、再入社の形で藤田組の役員を務めたりもしている。鉱専の学生たちに教える時の田中はいかにも楽しそうであった。

 衆議院当選も五回目になっていた昭和四年(一九二九)十一月、田中は、ライオン宰相こと浜口雄幸内閣の文部大臣に任命されて入閣を果たすが、田中の文相起用は小林一太という議員の急病辞任という事情によるものであった。

 民政党内の順位や適格者という観点から言えば文句なしに田中になるのだが、この内閣には同じ秋田県選出の町田忠治が農林大臣としてすでに入閣しており、同一選挙区から二閣僚の前例がない。しかも二人は秋田中学の先輩、後輩の関係でもある。そうしたことをことさらに言い立てて田中の入閣に反対する者のないではなかったが、さすがに総理総裁の浜口雄幸はそうした俗言には耳をかすことなく、田中の文部大臣は予定通りに決定したのであった。

 大臣決定時、田中は所用で大阪にいたが、書記官長から電話連絡を受けるといかにも嬉しそうに応じて床屋に直行したという。聞きつけて駆けつけた新聞記者連中にも、ヒゲを当たらせながら真実嬉しげに笑顔で対応したので、たちまち、新大臣は庶民的で親しみやすいとの評判が立った。幼いころからの貧乏や苦労が、おのずからにして率直で温和な人格を築き上げてくれていたようである。

 町田と田中の二人が大臣に就任したことは地元の秋田でも大変な喜びをもって受け止められ、祝賀の提灯行列なども催された。母校秋田中学ではたまたま考査期間中であったが、四年生と五年生がその行列に参加し、校歌を合唱して意気盛んなものがあった。

 昭和十一年、七期務めた衆議院議員を退いた田中は、枢密顧問官の大役を仰せつかった。これは、重要な国務と皇室の大事に関して天皇の諮問にお答えするのが主な仕事になっている要職である。田中の能力や経歴と合わせて人品骨柄も高く評価されたのであった。

 田中は光栄に感激するとともに、これが最後の御奉公と誠心誠意職務の遂行に努めた。

 在任まる四年、その間に次第に老衰が進み、昭和十五年十二月六日、田中は枢密顧問官在任のまま自宅で七十六歳の生涯を閉じた。

 本葬は東京で行われたが、遺骨は秋田市にある鱗勝院の田中家累代の墓所に納められ、ふるさとの地で永遠の眠りについている。

 従二位勲一等が最終の位階勲等である。

柴山 芳隆 (S36卒)