わが青春…学びやと共に (6)

中台新校舎

2014年09月01日更新

老朽から新築まで 4つの校舎で学ぶ

長谷部 裕司(昭和62卒)

 たまに、同級生と会うと一瞬で昔の自分に帰るという経験は誰しもあることと思う。勉強の苦労話や部活動の自慢話、担任教師の妙なくせ、様々な行事やイベントのこぼれ話や裏話など、頻繁に顔を合わせる友達とでも、また、久しぶりに会った同窓生とでも、話は尽きることなく、学生時代の思い出があふれ出てくる。不惑の歳をかなり過ぎて、頭髪や眼、腰などに様々な変化が現れてきた今でも、やはり、古き良き時代の忘れられない思い出を抱き続けているようである。

 私が高校を卒業してから4半世紀が過ぎたわけであるが、今時の高校生を見ると、私の時代では考えられないくらいみんな小奇麗で、ファッショナブルで、格好良い(もっとも、これは私の主観であり、このように思うのは、私が高校生時代に特別に小汚く、服装に無頓着で、格好悪かったせいで、他の人はそれなりに格好良かったのでしょう)。モデルのような髪型で自在にスマホを操り、夜半のコンビニで夜食を買っている姿などを見ると隔世の感が生じる。ただ、その会話に聞き耳を立ててみると、部活の話やクラスメートの話など、やはりその内容は我々の時代と大差ないようである。彼らが(彼女らも含めて)今の私の年代になった時にも、時の高校生を見て、やはり同じような感慨にふけるのであろう。

 さて、高校時代の話をしたときに必ず出てくる話題のひとつに「校舎」がある。


ありがとう!満身創痍、
青春を受け止めたね

伝統を引き継ぎ、新しい
歴史を刻みます
(昭和62年度卒業アルバム
より)

 私が入学したのは、春の選抜高校野球で初出場の東京岩倉高校が、桑田・清原を擁するPL学園を破り初優勝を果たした昭和59年の春。伝統ある秋高生の一員となる自覚も半ばで、6割の緊張、3割の不安、1割の希望を胸にうぐいす坂を登り、「理科棟」で高校生活の第一歩を踏み出した。その当時はまだまだ真新しさが残っており、旧校舎の同期生を尻目に、ほんの些細な優越感に浸っていた。

 電電公社がNTTに民営化された頃、私は2年生となり、「旧校舎」が第2の学びやとなった。「廊下がない」という、私にとって衝撃的であった校舎は、数十年にわたり数多くの諸先輩の高校生活を見守り続けた歴戦の老兵のように、やがて取り壊される運命にありながら、なお威厳と存在感を示していた。この校舎で学校生活を送ることができ、遅ればせながら「自分は秋高生の一員と認められたのだなあ」と感慨に浸った。

 2年の途中で旧校舎の取り壊しが始まり、プレハブの仮校舎に移転。3度目の校舎での授業が始まった。暑いときには火災報知器が誤作動するような環境で、まさに「汗水流して」勉学にいそしんだのも、今となってはひどく懐かしい。

 そして3年生の秋、いよいよ新校舎が完成。4度目となる校舎はすべてが斬新であった。新築の真新しさはもちろんであったが、授業は教科ごとに移動、ホームベースでのクラスミーティング、広々としたコモンスペース、CMにも使われたステンドグラスなど、およそ当時の高校生の私の頭では発想すらできない、文字通りの「新校舎」であった。大学のようであり、海外の学校のようであり、一回り大人になったような貴重な経験をすることができた。休み時間になるとコモンスペースのふかふかの床の上で、プロレスの関節技を掛け合うというような、子どもじみたことができたのも、新校舎ならではの楽しみであった。

 高校時代の3年間で4種類の校舎で過ごした経験のある人はあまりいないのではないかと思う。あの校舎の時にはあんなことが、あの教室ではあんな経験をした……などと、他の人の4倍も思い出にふけることができることは、これといって人に秀でるものがない私にとって、数少ない自慢である。

 新校舎の落成という記念すべき節目のタイミングで高校生活を過ごすことができたのは、何物にも代えがたい貴重な経験であった。また、綿々と続く秋高の歴史の変遷の立会者として本誌発刊に際し当時を振り返ることができたことに感謝し、このように自身の思いを綴ることができたことを光栄に思う。手形の丘に泰然とたたずむ母校の校舎に思いを馳せ、久しぶりにかつての仲間とともに昔話に花を咲かせながら、甘美なる酩酊にでも浸りたいものである。

長谷部 裕司 (S62卒)