文武両道…若かりし日々 (2)

柔道部

2014年09月01日更新

伝統を受け継ぐ秋高柔道の立姿

倉泉 信夫(昭和39卒)

 秋田高校文武両道の一翼を担う柔道部は、旧制中学時代の全国優勝をはじめ、たびたびの上位進出。戦後も昭和29年の全国3位等、強豪校として今日まで名を馳せている。


秋高校門に立つ同期5人組。
下駄履き通学がまだ健在
左から佐藤、進藤、倉泉、
黒坂、村山(昭和38年)

 秋高柔道部の特筆すべきは、伊達義行先生父子を源流として現在に至るまで、有為の素晴らしい指導者に恵まれたことを第一に挙げられよう。そしていつの時代にも師より徹底して教え込まれるのが”秋高柔道の立姿”である。背筋を伸ばしてスックと立つ、相手としっかり組んで技を掛ける、このことである。

 昨今の国際大会は、ロンドン五輪に見られるように、組み手争いとポイントの奪い合いに終始し、まるで、”軍鶏の喧嘩”の様相を呈している。このような国際競技柔道の対極に位置するのが秋田高校の柔道だと言って過言ではない。きれいな姿でありながら、なお強い柔道を目指してきたのが、母校柔道部の伝統である。

 さて私が秋田高校へ入学したのは昭和36年、秋田国体の行われた年だった。駅前校舎の頃は、OBの方々もよく稽古に参加し、木造平屋建ての古い柔道場は賑わっていた。特に年越し稽古は印象に残っている。年をまたいで汗を流し、三吉神社へ初詣。ごった返す境内で円陣を組んでの校歌斉唱はとても恥ずかしかったが、ちょっぴり誇らしくもあった。私たちの入部と時を同じくして東京教育大卒の立川健二郎先生(現三田姓)が着任。先生は生徒の主体性を重んじ、普段は寡黙な方であった。ところが、ご自身の試合では電光石火の内股で相手を投げとばし、その技の鋭さに周囲は驚かされた。また合宿では通常の稽古に加え、様々なトレーニングを取り入れ、飽きやすい私たちのために楽しみながら筋力や機敏性を強化する、若い先生ならではのメニューを考えてくださった。さらに先輩諸兄は思いのほか紳士的で、練習は厳しくても、運動部にありがちな理不尽な思いをしたことは一度もなかった。

 そして私たちの部生活を温かく見守ってくださったのがOBの存在である。北林庄作大先輩を始めとして佐藤俊雄氏、高橋重一氏、北島俊一氏等、皆様に良くしていただいた思い出だけが残る。ちなみに現在OB会は「秋田高校柔友会」として、日本柔道界の一時代を担った村井正芳氏(昭和36卒)を会長に、秋高監督を16年間つとめ多大な実績を残された船木賢咲氏(昭和44卒)等とともに、現役への支援やOBの交流などの活動を行っている。

 私たちが3年生の時を、対外試合の面から思い起こしてみた。昭和38年、6月の全県総体で優勝。余勢を駆って臨んだインターハイ(松山)では、崇徳高校(広島)に苦杯を嘗め予選リーグで敗退した。ところがその後の東北大会(青森)では念願の優勝を果たすことができた。これが秋田高校にとって、東北大会初の優勝であった。周囲からは順当勝ちと言われたが、選手は一戦ごとに自信を増し、勢いに乗じた感があった。さらにこの大会では秋田高校1校から3人(村山、黒坂、倉泉)が優秀選手に選出されるという嬉しいこともあった(これより26年後の平成元年、秋高は2回目の東北大会優勝に輝く。当時の船木賢咲監督悲願の勝利だった)。


全県、東北で負け知らず。昭和38年当時の全部員
(上段から1年生、3年生、2年生。秋高柔道場で)

 また、同年11月に開催された国体(山口)には、本校から前述の3人が出場、半田(秋商)、佐藤(秋工)と5人でチームを組む。鹿児島、大阪、新潟を次々に退け決勝戦へと進んだ。結果は大会2連覇を目指す福岡チームに敗れ、準優勝に終わった。しかし決勝まで行けたことは夢のようなことであった。当時は大会数も少なく団体戦がほとんどであった。したがって、選手はいつも母校の名誉を背負い戦っていたような気がする。

 ところで、手形新校舎の完成に伴う駅前から新校舎への移転は昭和37年春のこと。生徒一人ひとりが自分の使っていた机を、自ら運ぶようにという指示だった。連なって黙々と机を担いで歩いたことが昨日のように思い出される。あれは何か秋高の”無言の教え”であったのかと思うのは、私だけだろうか。ともあれ、忘れ得ぬ思い出をくださった当時の先生方には、今でも感謝の気持ちでいっぱいである。

 私たちが入学した頃は、古い校舎を背景に旧制中学のバンカラ風が色濃く残っていて、生徒たちも汚れた帽子、腰に手拭い、下駄履き通学が当たり前だった。しかし新校舎へ移った後、3年生の頃には、腰に手拭いを下げている者は皆無。私のような下駄履きは少数派となっていた。

 そして卒業の年の昭和39年、秋には世紀の祭典、東京オリンピックが華々しく開催された。思えばあの頃は、大きく転換していく時代の境目であったようである。


昭和38年10月29日付 秋田魁新報

  •  昭和38年の第18回国体秋季大会(山口)での秋高柔道部の活躍を伝える新聞記事より
  • 〈高校柔道が決勝で惜しくも敗れた。(中略)しかし全員むらなくがんばり、強豪鹿児島、大阪を降した健闘は光っていた。〉
  • 〈「みんなよくやった」北島監督の話 鹿児島を破ってからすっかり自信がついた。決勝は完敗したが、半田、黒坂をはじめみんなよくやってくれた。二位はりっぱな成績だと思う。〉

倉泉 信夫 (S39卒)

倉泉 信夫くらいずみ のぶお さん (S39) プロフィール

昭和20年秋田市生まれ。秋田高校3年生時の昭和38年、インターハイでの敗退以外は全県、東北の全大会で負けなしの記録。立教大学柔道部主将。三井不動産リアルティ系列会社社長を務め、平成22年退職。