土田 萬助 (つちだまんすけ)

「土百姓(どびゃくしょう)議員」を自称した県南の雄

2013年12月13日更新

秋田中学から秋田師範へ

 土田萬助の生年月日は明治二年(一八六九)一月六日で、出生地は平鹿郡大雄村(旧館合村)宮田である。

 土田家は、文政年間から四ヘクタールの田畑を自作し、代々これを受け継いできた県南きっての大地主であり豪農であった。

 明治六年、父吉治が病没して、五歳の萬助は祖父吉太郎の手で養育される。小学校の成績は抜群であったが、幼時から腕白で、図抜けて大きい頭部の印象とともに他の子どもたちを圧倒していた。

 明治十六年に秋田中学に進学するが、翌年の五月に突然母を失い、萬助は中学二年で喪主となることを余儀なくされた。この時にはすでに祖父も曾祖父も死去していたから、萬助は十五歳にして土田家の男子の長上となったのであった。

 ここで萬助は、秋田中学から県立秋田師範学校(秋田大学教育文化学部の前身)に転校して寄宿舎生活を送るようになるが、この時の寄宿舎の室長は内藤湖南で、師範入学以前にすでに『四書』『左伝』などの漢籍を読破していた湖南の勉強力は萬助に少なくない影響を与えた

 しかし、土田家の家政が広範多岐にわたり、養父彦七一人では手にあまるところがあって、明治十九年、萬助は心を残しながらも師範を中退せざるを得なかった。

農村更生への道

 郷里に帰った二十歳の青年土田萬助は、朝から帳場に座って家政の采配をとるとともに、農村更生、農事改良、治山治水の問題等について研究と討論を繰り広げていく。夕食後は決まって、十数人の若勢を相手に持論を展開するのが常であったという。

 「論理のない実践は盲目であり、実践のない論理は空虚である」と説く土田は、まず国土保全の立場から植林を奨励。明治二十一年から実行に移して、平鹿郡内で三百二十ヘクタール、七十万本、雄勝郡内で四百ヘクタール、二十万本、両郡合わせて九十万本の杉やヒノキを逐次植え付けしていった。

 当時の農村は、旧藩時代そのままの気風で活力に欠け、立国の大本である農業も例外ではなかった。そうした状況を憂えた土田は、明治三十三年に館合村農会を設立し、鍬一丁の惰性農法から脱却して科学農法の普及に努めるべく、はるばる宮崎県から乾田馬耕の技師を招聘して農法の改善、堆肥の増産、米の品質改善の実を上げていく。

 それらと平行して土田は、農民たちの経済観念の確立の意味も込めて勤倹貯蓄を奨励し、民風の刷新向上にも努力した。

 明治三十九年、土田の指導のもと、館合村始まって以来の大事業である全村の農地整理が開始された。沼地を埋め、原野を拓き、地籍を整理して農道を通し、水利を調整して農耕の便をよくするなど、挙村一致で事に当たり、三ヵ年にして、模範農村にふさわしい碁盤目状の四百ヘクタールの美田を現出させた。まさに、全村一新の大事業であった。

 広大な美田の整備はむろん大いに喜ぶべきことであったが、その反面、この大事業にともなって、堆肥増産のための草刈り場を失うことを余儀なくされたので、その代替と町村財政の基盤拡大の意図のもと、土田は、隣接町村とはかって国有林五百五十ヘクタールの払い下げを受け、あわせて、薪炭用の利用のための入会権も確立した。現在につづく共有林で、今なお、関係する町村の財政状況を潤してくれている。

 そうした公的な活動とは別に、土田家では私設の「土田農場」を経営していた。ここは、平均反当三石どまりの稲作を反当四石どりに成功させている模範農場であり、農事試験場のような役割も果していた。

 春、秋の時期になると視察者の団体がひきもきらず、屋敷内に大型テントを張って接待に当たったと伝えられている。

 また、土田は農場とは別に「土田牧場」を経営し、ここでは競走馬の生産にもあたっていた。

教育の村

 師範学校に籍を置いたこともあるせいか、土田は教育問題にも非常に関心が深かった。

 郷里館合小学校の建設にあたっては、その敷地として一ヘクタールの土地と建築費を寄付した。館合小学校は長い間トタン屋根ではなく木端葺きの屋根であったが、これは、雨の音がうるさいと学習活動に支障が生ずるという、土田の進言にしたがったものであった。

 また、教職にある者は、常に学校の近くに起居しなければならないという考えから、土田は自費をもって学校の近所に教員住宅を建てている。

 現在の横手高校の創立に際して、校庭に記念の桜並木を植樹させたのも土田で、この桜は今でもその時期になると生徒たちの眼を楽しませ、こころを和ませてくれている。

 家庭での土田は教育第一主義を唱え、自宅に隣接する住宅に小学校長を住まわせた土田は、村の教育をその校長に全面的に任せ、時おり報告を受けて、教育上必要な経済的要請などがあると快くそれに応じていた。館合村は、農業面で模範村であると同時に、ゆたかな教育の村でもあったのである。

 明治四十二年に平鹿郡教育会会長に選ばれた土田は、その後三十二年間の長きにわたってその職に精励することになる。

「土百姓議員」

 明治三十七年に平鹿郡議会議員に当選していた土田が、初めて県議会に席を得たのは七年後の四十四年である。この年には館合村の村長にも推され、これは八期、三十五年間の長期に及ぶことになる。

 平行して県議会の方は三選され、治山治水、米穀、耕地整理、教育などの諸問題について活発な論陣を展開し、大正四年(一九一五)には、県議会議長にも就任している。

 大正七年、土田は貴族院議員に選出されて中央政界に躍り出る。十四年にも貴族院多額納税議員に選ばれて国会の場で活躍するが、「今の政界では、大地に足を踏ん張って農民とともに生きるような政治家は少ない」と述懐し、「貴族院でほんとうの土百姓議員は自分一人だけだ」と漏らしていたという。

 国政に励むかたわら、地元のさらなる発展のためにも大いに貢献しているが、中でも特筆すべきは鉄道建設事業である。

 改めて言うまでもなく、鉄道は産業の大動脈である。横手と本荘を結ぶ横荘線鉄道の開通は地域住民の長い間の念願であったが、莫大な資金を要する難事業でもあった。

 大正四年に横荘線鉄道創立委員長に推された土田は、自ら巨財を投ずるとともに、後述する塩田団平ら同志を糾合して資金調達にあたり、不況下の中央財閥も説得して援助を求めた。

 横荘線と並んで、横手と岩手県黒沢尻(現北上)を結ぶ横黒線(現北上線)の開通も県南住民の悲願である。こちらに関しても土田は、町田忠治、斎藤宇一郎、添田飛雄太郎(本校の第十四代校長)ら県選出の代議士とともに安田、三菱、古河などの財閥を訪問している。前後二十年の歳月を要して開通した横黒線が、現在、奥羽横断鉄道の重要な一翼を担っている現実は、事新しく指摘するまでもないところである。

 上記のほか、秋田銀行監査役、羽後銀行頭取なども務めて多忙な毎日に明け暮れた土田だが、忙中に閑を求め、万城と号して玄人はだしの書も数多く残している。

 本誌の三番目に登場した寺崎広業や彫刻家の佐々木素雲を援助するなど、芸術家のパトロンとしての功績も小さくない土田が、七十三年にわたるおのが人生の幕をおろしたのは、昭和十七年(一九四二)六月十五日のことであった。

柴山 芳隆 (S36卒)