小西 正太郎 (こにししょうたろう)

本県洋画壇の草分け

2014年01月17日更新

大地主のお坊ちゃん

 仙北郡六郷町と言えば清水とお寺の町として有名だが、その六郷町で代々中兵衛を名乗る大地主小西家に明治九年(一八七六)七月二十日、男の子が誕生して正太郎と名づけられた。

 正太郎が生まれた当時の小西家の主な資産は、小作米五百俵、町内に三千三百平方メートルの敷地、山林五ヘクタールと記録されている。

 大家のお坊ちゃんの常として蒲柳(ほりゅう)の質であった正太郎は大事に大事に育てられ、六郷小学校からやがて秋田中学へと進学、明治二十七年に秋中を卒業する。

 二十八年、小西は、書画骨董を趣味とする父の勧めもあって上野の官立東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)予科に進学し、翌年、日本画本科に進む。美校入学以前にすでに二十歳で結婚しているところなどは、のちの小西の生き方を暗示させるものがある。

 小西が選んだのは日本画であったが、二十六年にフランスの外光主義の香りを引っ提げて帰国していた日本近代洋画の父・黒田清輝が二十九年に美校西洋画科の初代教授として赴任してくる。

 画題といい色彩といい在来の日本画にはまったく見られない黒田の絵はたちまち小西のこころをとらえ、三十年、小西は迷うことなく洋画本科に転科した。

 三十五年、めでたく美校を卒業するときには、黒田は言うまでもなく、黒田の天真道場を出た藤島武二や岡田三郎助などの俊秀作家と親しく交わるようになっていた。

 小杉天外は、秋田出身の自然主義作家だが、『魔風恋風』は天外の代表的長編小説である。この作品は、当時の青春群像をありのままに描いた佳編として名高いが、その中に、ヒロイン荻野初野に野心をもつ青年美術家が登場する。そのモデルが小西だと言われている。

 もちろん、小説だから一定のフィクションはあるが、日本の自然主義というのは現実をありのままに写し出すことに大きな価値を置いていたし、当時学友たちも小西については、好男子で色々の噂もあったと証言しているようだから、『魔風恋風』に登場する恋多き野心家はかなり実際の小西に近い人物なのかもしれない。

 美校は卒業したものの小西の身体は相変わらずひ弱であったため神奈川県茅ヶ崎にある南湖園で療養し、その後、両親が息子のために建ててくれた保養を兼ねたアトリエで絵画制作を始めている。小西家の財力の一端をうかがわせる挿話である。

 しかし、結局病弱には勝てず、小西は三十七年に故郷に帰り、同年三月三十一日付で県立横手中学校の助教諭に招かれた。八ヵ月という短い期間であったが、美校出の小西は珍しさもあって大いに歓迎されたようである。

 自宅から学校まで十三キロほどあり、小西はそこをお抱えの人力車で往復したというから、これまた大きな話題となったのであった。

 三十七年十一月、健康状態がはかばかしくなくて同校を辞し、七年間という長い療養生活に入る。

 四十四年、快癒して復活した小西を今度は町内の有志が担ぎだして政友会から県会議員に立候補させた。ここでも家柄がものをいったのであろう、小西はあっさり当選してしまった。ただし、議員としてはこれといった仕事はしていない。

 みずから望んだのでもない県議は一期でやめた小西だが、美校を出てすでに十余年を経過しており、周囲の者は誰も小西はもう絵とは関係ないものと思い込んでいた。しかし、小西の奥底には洋画に対する情熱が絶えることなく脈打っていたのである。それに再点火したのが仲間たちの渡欧計画であった。

四十六歳で渡仏

 大正十一年(一九二二)、四十六歳の小西に画家としての再起の機会が訪れる。美術学校時代の友人である中沢光弘らがヨーロッパに渡ることを知り、家財の一部を売り払ってそれに同行することにしたのである。

 画家としてのブランクが長過ぎることを心配する者もあったし、小西の内心にも多少の不安はあったのだろうが、絵画への抑えがたい郷愁と、自分は美校で正規の修業をした者であるという自負が最終的に小西に渡欧を決断させたようである。

 まだ、人生五十歳と言われていた頃である。その五十を目前にしての決断には見習うべきものがあると言えよう。

 パリ・アカデミーに席をおき、スペイン人画家オルティスに師事しながらも、小西は渡仏後しばらくカフェ通いにうつつを抜かしていたらしい。

 が、三年目の大正十三年春、限界まで引き絞られた矢が弦を離れるように小西の才能は一挙に開花した。権威あるサロン・ナショナル展で八〇号の「臥せる裸婦」が入選したのである。

 当時、画家が作品を公衆に発表することができる一般的な場所は、アカデミーが主催する公的な展覧会(サロン・オフィシャル)以外にはなかった。

 「臥せる裸婦」が入選したその同じ年、ベルギー王室美術協会展に出品してあった六〇号の「赤い着物の女」がこれまた入選の栄誉に輝いた。

 小西のこの突然の快挙は周囲の者たちをずいぶん驚かせたらしいが、病気その他で長い間眠っていた小西の才能と実力が衝撃的なかたちで顕在化したものである。

 翌年にはパリ・アンデパンダン会員にも選ばれ、サロン・ドートンヌの一員にもなって、小西は押しも押されぬ画家としての地歩を固めていく。

 小西より一年遅れて渡仏し、彼の世話で背中合わせの宿屋に住んでいた友人の杉浦非水は、「あとで考えると、最初のカフェ通いの二年間にフランスの人間を理解しようと努めた感がある」と振り返っている。カフェ通いをしながら、旅人ではない、生活者の視線を小西は養っていたのかも知れない。

 余勢をかって小西はギャラリー・カーミンヌで個展を開き、好評を博す。

 日本人では藤田嗣治以外に作品写真版が載ったことがないサロン・ナショナルの出品目録に小西の絵が載ったのもこのころである。まったく異例のことで、周囲の祝意と羨望も相半ばしたらしい。

 小西がパリ時代に親交をもった人物の中には、藤田嗣治以外に大久保作治郎、田辺孝次、石黒敬七などが含まれていた。

 フランスに三年間滞在している間に生家が焼けて小西の経済状態も苦しくなるが、彼は水も出ない安下宿での生活に耐え、費用も最少限に切り詰めて、貪欲に近代絵画の精神と手法の吸収に努めた。

豊満な美の世界

 小西が帰国したのは大正十五年である。凱旋将軍さながらの華やかなものであったという。

 早速その年の四月に日本橋三越で開いた滞欧作品展には、油彩やスケッチなど八十点を並べてその成果を披露し、翌月には秋田でも同趣旨の展覧会を開いている。

 帰国後の小西は東京世田谷に居を構え、神田錦町に自由研究所を開いた。ここでは勤労画学生を主に指導したが、むずかし屋の反面人情家でもあった小西が、時間的にも金銭的にも恵まれない勤労者に意識的に絵画への門戸を開いたものであった。出発の遅れた自身に対する苦い思い出も込められていたのだろうとの指摘もある。

 恋と大尽遊びを肥しにしたような小西独自の芸術性に対する評価は国内でも高く、昭和二年には白日会会員に推挙され、同年の帝国美術院展(帝展、現日展)には「水浴後」と題した裸婦像を出品して入選した。

 小西は、人物なかでも裸婦図を得意とし、構図、色彩ともに堅実で、ひと言で、ボリュウムのある裸婦が小西のスタイルであると評されている。

 二科会、槐樹社、光風会にも出品するなど活発な活動を展開するが、昭和十九年、太平洋戦争が熾烈になってきたのをしおに、小西はひで夫人とともに郷里に帰り、三男の住まいの別棟に落ち着いた。すでに六十九歳になっており、人生を達観した静かな生活が始まる。

 絵も、依頼を受けたときに描いたり、気分直しに山野をスケッチする程度で、どちらかと言えば趣味一途に過ごす日々が多くなっていく。この頃の小西の趣味は、義太夫、チャボの飼育、料理づくりなどであった。

 家財を一人で食いつぶし、それと引き替えに豊満な美の世界を獲得したような趣きのある小西が脳溢血にみまわれ、七十九歳で他界したのは、昭和三十一年四月二十六日である。

柴山 芳隆 (S36卒)