文武両道…若かりし日々 (3)

硬式野球部

2014年09月01日更新

諸先輩、無私の援護が力に 戦後初16年ぶり甲子園の土

本多 秀男(昭和29卒)


秋高ベンチと鈴なりの応援席。
悲願の甲子園に全校一丸
(昭和28年頃の公式戦のーこま)

 昭和28年は、秋田高校にとっても、我が野球部にとっても記念すべき年であった。秋田南高校から秋田高校になり、創立80周年にあたる節目の年であり、昭和26年、27年とあと一歩まで迫りながら手にすることが出来なかった奥羽3県の代表の座と紫紺の優勝旗を握ることが出来たのである。県営手形球場で宿敵八戸高校を破り、16年ぶり9度目の甲子園の切符を手に入れることが出来た。試合終了のサイレンと同時になだれ込んで山谷監督を胴上げする先輩や感涙にむせびながら凱歌を高唱する職員、在校生の姿が今も鮮明に蘇ってくる。

 当時のことを振り返ると、さまざまなことが走馬灯のごとく思い出される。秋田駅前にあった母校のグラウンドは未整備で、厳冬に自分たちの手で千秋公園から土を運び、雪の消えるのを待って整備するという状態であった。室内体育館では今でいう筋力トレーニングを参考書をひもときながら勉強したものであった。今にして思えば、腹筋強化は同じ室内でトレーニングしているボート部の練習を見習い、柔軟性は体操部の練習を、走力は陸上競技部、ジャンプカはバレーボール部、瞬発力は剣道部等々いろいろと他部のやり方を取り入れ研究しあったことを思い出す。

 しかし、何といってもこの年、勝利の栄冠を獲得出来たのは、スポーツに深い理解を示す高橋一郎校長、桜谷吾朗部長、カリスマ性豊かな山谷喜志夫監督と、トップに非常に恵まれたことだと思う。山谷監督の一番の思い出は、バント練習で、投手が全力投球するボールをバッターボックスで手づかみにする荒業にはドギモを抜かれた。選手全員が深く感激し、この監督のもとならばの意を強くしたものだった。また山谷監督は、人柄もおおらかで当時多くの周囲の人々の支援を得たのもそのせいであったと思う。甲子園が決まった時、監督は言葉少なに「甲子園出場についてはうれしいというだけで一杯です。野球部のことを心配しながら死んだ先輩のことを考えると胸が一杯です」と語ったとのことだった。

 後援してくださった人々の中では、特に技術的バックボーンとして伊藤勝三大先輩の存在が大きく、さらに財政面の支援をしていただいた西野忠男先輩、また、矢留クラブ蓼沼会長以下OB会の後援、大学現役組、地元の若手OB等の諸先輩がコーチ団となり、連日グランドに来ては、試合の相手をしてくれたり、ノックの雨を降らせてくださった。また、土手クラブの先輩でもあった医師団の石田、佐野、湊の各先生方など本当に多くの先輩方に参集をしていただいたものだ。それぞれの専門分野に応じて適切なご指導がチームのレベルを引き上げ、選手の志気向上にどれほど貢献したことか、計り知れないものがあったと思う。

 こうした先輩と後輩のチームが一丸となった猛練習によって伝統の継承を生み、強い精神面の支えとなって晴れの栄冠に輝く快挙となったものと今日でも強く感じる次第である。


戦後初の甲子園の土を踏んだ秋高ナイン
第35回全国高校野球選手権大会(昭和28年)

 第35回全国高等学校野球選手権大会は、代表23校の参加により開催された。1回戦不戦勝の後、2回戦で大会随一の好投手として秋高はCクラスと目され、ワンサイドゲームを予想するものが大方であったが、青山が強打の相手打線に好投し、野手もよく守り、互角の試合を展開し、大接戦となったのである。大観衆が我が方に味方しているかのようなあの声援が今も思い出される。7回に2点を奪われた直後の8回、2死満塁と攻めながらあと一本が出ず、2対Oで涙をのんだ。なお、この大会の優勝校は、松山商業であった。

 120年になんなんとする我が野球部の歴史と伝統は、どのような時も、学校の多くの先達、枚挙にいとまのない先輩たちの無私の応援と、想像を絶する猛練習の結果として生まれたものである。昨今の社会情勢の中、学校や野球部を取り巻く環境も難しさを増しているものと察するが、だからこそ、後輩諸君には、大いに秋高スピリットを発揮し、心身の錬磨をしながら、社会に羽ばたくための充実した3年間を過ごされるよう祈るばかりである。

 末筆ながら秋田高校の創立140周年のお祝いを申し上げるとともに、野球部の勝利をただひたすら念願する。


昭和28年8月6日付 秋田魁新報

  •  昭和28年、秋高16年ぶりの甲子園出場を伝える新聞記事より
  • 〈内外野スタンドの歓声は手形の空に轟いて熱狂する応援団からは五色のテープが球場に乱れ飛び、応援団に胴上げされる山谷監督、ただただ感激に震えながら互に手を取り合って泣きむせぶ選手、かくして三日間手形球場に善戦を続けた秋田高校はこゝに十六年ぶりで甲子園出場の栄ある代表権を握り、汗と砂にまみれたユニフォームにあこがれの優勝旗を握った。〉

本多 秀男 (S29卒)

本多 秀男ほんだ ひでお さん (S29) プロフィール

昭和10年秋田市土崎生まれ。昭和33年慶応大学卒業後、日本石油に入社。同46年同社野球部監督就任。静岡支店長、名古屋支店長などを経て平成5年日石丸紅代表取締役社長就任。同11年退社。東京都目黒区在住。