中川 重春 (なかがわしげはる)

男鹿が生んだ英傑

2014年06月13日更新

人生の要諦は一期一会に

 中川重春は大正・昭和前期、豊富な人脈と情報を武器に、そして持ち前の馬力と才覚で実業と政治の桧舞台への階段を逞しく駆け上がっていった一代の英傑である。

 具体的には船川港を拠点として、わずか二六歳、裸一貫から船川電気を興し、次いで中川合資会社、中川汽船、中川運輸、秋田港湾運送…と事業を拡大し、東北の海陸運業界に君臨した。その一方で政界にも進出する。秋田県会議員二期、衆議院議員を連続四期、逓信政務次官…と活躍し、晩年は初代男鹿市長として今日の男鹿半島を拓いた。

 重春は一見、豪放磊落のようでいて、実は繊細巧緻。何よりも一期一会を大事にし、多生の縁に研きをかけた。その結果、いつの間にか広範強大な人脈網が形成され、そこから生まれる莫大な利息(情報や資金など)が重春の前に立ちはだかる実業や政治上の難関を切り開く重要な鍵となった。実業界進出の初陣となった船川電気の創業が、絶望の渕から蘇生できたのも一期一会の絆(友情)がもたらしてくれたウルトラCであったし、太平洋戦争真っただ中の昭和十七年四月の〝翼賛総選挙”で、非推薦ながらみごと衆院選連続三選を果たしたのも、彼の温かい人間性と侠気を知る数多県民の同志的な支持があったればこその奇跡だった。

 今、思うに中川汽船が太平洋戦争の徴用で持ち船の大半を失わなかったら、船川港の今日も、男鹿半島の今日も、もっと違った展開になっていたのではあるまいか。もっとも、歴史に「もし…」はないが。

 彼の死は昭和三十八年十一月五日夜、東京・神田の同和病院でのこと。脳軟化症。享年七三。その豪快で闊達な生涯を通観するとき、「重春の前に重春なし。重春の後に重春なし」の深い感慨を禁じ得ない。まことに「宝積の人」(人に尽くして報いを求めない人)だったのである。

祖父の代に久保田から移住

 中川重春は明治二十三年(一八九〇)六月十六日、南秋田郡船川港町比詰字羽立三〇(現男鹿市)で文之助・トヨの長男に生まれた。三男五女の二番目で、幼名は順吉(大正二年、重春と改名)。弟に元県議会議員渡部重秋、元秋田トヨタ社長中川重利がおり、元男鹿市長吉田金忠は妹サトの子供である(戸籍関係資料による)。

 中川家は生粋の「男鹿人」ではない。家伝によれば、遠祖は丹波国馬路村(現京都府亀岡市)の中川家で、後の久保田藩主佐竹氏とは古くから親交があった。関ヶ原戦後、佐竹氏の秋田入部に従って移ってきたという。

 中川家の累代当主が久保田藩で、どの程度の地位にあったのか、資料はない。但し累代の名が戸籍上明白なのは、重春の曽祖父中川文蔵からで、文蔵の身分は「四人扶持・銀百目」と『久保田藩給録調』(安政三年)にある。一人扶持は一日玄米五合(O・75キログラム)だから、四人扶持では二升(3キログラム)。つまり足軽級で、住居は秋田手形西新町だった。

 この文蔵の養子順治(天保元―明治二十七年六四歳没)の代になって明治維新を迎え、中川家は武士を失業した。だが、順治は当時の秋田県庁に太いパイプを持っていた有能の士。たまたま比詰村羽立(現男鹿市)の人たちに頼まれて明治六年、入会漁業権を取得してやった。

 感激した羽立の人びとは集落の三吉神社境内に順治の顕彰碑を建立するとともに、中川一家の羽立移住運動を始めた。当世で言えば、企業誘致ならぬ人材誘致である。村民の願いは明治十三年に至って、ついに実った。

 羽立で中川家が始めたのは、呉服商と宿屋だった。当時、秋田の玄関港は土崎で、羽立から指呼の間に位置する舟川港は緊急避難港の域を出なかった。だが、その将来性に賭けた順治の思惑はみごとに当たり、それで得た財を基に順治の長男文之助(慶応元―大正十五年六〇歳没)は土木請負業、製材業、造船業、港湾荷役回漕業などを次々に興し、いずれも順風満帆。そんな飛ぶ鳥も落とすような勢いの明治二十三年(一八九〇)、この世に出てきたのが重春だった。

〝自転車ドロ”で退学処分

 重春が入学したのは、地元の比詰尋常小学校(現船川第二小)である。だが、卒業生台帳に順吉(重春)の名はない。途中で船川小(現船川第一小)に移り、一年ほど通った後、秋田市明徳尋常高等小学校へ転校したためと思われる。当時は田舎と都市の学校差が歴然としていて、上の学校を目指す資産家の子弟ほど尋常科の中途で都市の小学校に転校させるケースが多かった。重春の場合も例外ではなかったわけで、やがて親の願い通り秋田中学校へ進む。

 俗に〝栴檀は双葉より芳し”という。重春も幼少の頃からスケールの並外れて大きな男だった。次のようなエピソードがある。

 明治三十九年三月二十六日、雪も解けて、春らしい気分が広がっていた。この日、秋田市の天徳寺で、日露戦争の秋田中学戦没OBら八人の追悼会が行われ、全校生徒が参列した。

 だが、重春は長い弔辞や読経に退屈し、小用がてら席を抜けて境内に出、外気を胸いっぱい吸い込んだ。その時、目の前に当時としては珍しい自転車がピカピカ光っていた。無性に乗りたくなって、ちょいと拝借した。

 乗り回しているうち、気宇壮大になり、まるで春風に誘われるように、そのまま生家のある羽立までペダルを踏み続けてしまった。

 一方、天徳寺では「来賓の自転車が盗まれた」とテンヤワンヤの大騒ぎ。八方手を尽くして調べた結果、重春の仕業と分かった。

 重春には泥棒という罪の意識はまるでなく、あくまでいたずらの範囲内のこと。とはいえ、秋田―羽立間四〇キロメートルも乗って行ったということで、学校側としても停学処分では抑さえ切れなかった。かくして、重春は四年生への進級を目前に退学を余儀なくされた(金沢勉著『秋高青春史・伝統は生きている』による)。

早大も中退、樺太庁へ

 当時の中学生たちは、退学を〝男の勲章〟とみる雰囲気があった。重春もなんら悪びれることなく上京、早稲田中学編入―早稲田大学専門部政経科入学のコースをたどる。

 だが、生来箍(たが)が外れたような奔放な性格だから、学業よりも〝社会学”に精進したよう。それを知った激情爆発型の父文之助は、直ちに学資を絶った。

 この結果、重春は止むなく中退し、帰郷した。だが、毎日ブラブラしているだけの息子を見て、怒り心頭の文之助は明治四十四年九月、重春を現サハリンの樺太庁に〝追放”した。

 当時、中川宗家の直系当主・中川小十郎が樺太庁第一部長の要職にあり、その縁故に託したわけである。その際、文之助が小十郎(後に台湾銀行頭取、立命館大学創立者・総長など。昭和十九年七八歳没)にあてた手紙には、次のようにあった。

 「伜重春こと、到底小生の手に負えざる代物につき、北海の寒風にあてて、真人間に成しくだされたく候」

 たとえ、へりくだった表現としても「手に負えざる代物」と書くとは、この父親も相当の代物であったに違いない。

危機を救ってくれた友情

 重春の樺太庁嘱託生活(木材干溜工場勤務)は、大正元年十二月までの一年四ヵ月。中川小十郎が台湾銀行副頭取に転出したのに伴って退職した。とはいえ、最大の樺太土産は、後の首相・加藤高明の長男・厚太郎(当時は旧制一高生)がたまたまフラリと樺太にやってきた際、一夜杯を交わし、義兄弟の契りを結ぶほどの仲になったことである。

 それから三年後の大正四年(一九一五)、重春の申請した船川電気の創業が、時の秋田県知事をはじめ政治上の反対派による妨害で挫折必至となったとき、厚太郎の口ききで父高明(当時外相)に接近し、その紹介と人脈で遂に事態を逆転したばかりか、最後には資金の援助まで受けた。まさに一編のドラマを見るような痛快さである。

 一期一会―生涯でたった一度の出会いだから、適当にあしらって別れるか、それとも、たった一度の出会いだからこそ、トコトン付き合って〝生涯の友”にしてしまうか。

 重春は船川電気創業の件で「人生の奥義」を教えられ、この体験を処世の基幹とした。因みに加藤厚太郎とは終生、刎頚(ふんけい)の友として深く交わり、彼が死(昭和三十四年六四歳)を迎えるまで何かと支援を惜しまなかった。

 そんな重春だったから、彼はいつも人気者だったし、節を曲げることもなかった。だからこそ、次に列挙する実業歴や政治歴を編むことができたのであろう。

その華麗な実業・政治歴

〔実業略歴〕

  • 大正五年(一九一六)、船川電気を創業(昭和十八年、戦時統合令で東北配電と強制合併)。
  • 大正八年(一九一九)、中川合資会社を創立(倉庫業、船舶業、回漕業など)。
  • 大正十五年(一九二六)、ウラジオストク―七尾―伏木―新潟―船川―小樽に定期航路開設(昭和十年頃まで継続)。
  • 大正十五年(一九二六)、ウラジオストク視察団を組織実行(秋田県初の海外経済視察団)。
  • 昭和二年(一九二七)、中川汽船を創業(最盛時には持ち船大小一七隻。太平洋戦争中、大半を撃沈される)
  • 昭和十三年(一九三八)、中川運輸を創立。
  • 昭和十七年(一九四二)、船川、秋田両港の港湾運送業八社を統合して秋田港湾運送(現秋田海陸運送)を創立。
  • 昭和二十九年(一九五四)、中川汽船を事実上店じまい。

〔政治略歴〕

  • 大正八年(一九一九)、南秋田郡会議員に初当選(二九歳)。
  • 大正十二年(一九二三)、南秋田郡から県会議員に初当選(定員五人中、四位。三三歳。昭和十年に再選される)。
  • 昭和十一年(一九三六)、総選挙に秋田県第一区から立候補、定員四人中三位で初当選、四五歳。翌十二年(一九三七)シンガリ再選四六歳。昭和十七年、シンガリ三選、五一歳。昭和二十一年、連続四選、五五歳)
  • 昭和十二年(一九三七)、パリの第三十三回万国議員会議に日本代表団の一員として参加。
  • 昭和二十一年(一九四六)、第一次吉田茂内閣で逓信政務次官に就任。
  • 昭和二十二年(一九四七)、公職追放令の対象拡大で衆議院議員を失職(五六歳)
  • 昭和二十五年(一九五〇)、公職追放解除(五九歳)。
  • 昭和二十九年(一九五四)、初代男鹿市長選で当選(六三歳)
  • 昭和三十三年(一九五八)、脳軟化症で倒れ、男鹿市長選の再出馬を断念(六七歳)
  • 昭和三十八年(一九六三)、十一月五日夜、入院先の東京・神田の同和病院で死去(七三歳)。

圧巻だった〝男鹿興し”

 重春の生涯を貫いていたもう一本の筋金は「古里の発展」である。息の長い船川築港への尽力がそうだし、大正十五年以来の対岸貿易振興は〝男鹿興し”の圧巻だった。早大在学中、社会勉強に力を入れ過ぎ、肝心の学業は疎かにしていたとされるものの、創学者・大隈重信の三訓(理想なきものは滅ぶ、進まざれば退く、あたわざるにあらず、勇なきなり)はバッチリ、骨身に染み込ませていたに違いない。ただの遊学生でなかったことの、何よりの証しである。

 重春は全盛期、現男鹿市役所裏の高台(船川港町泉台)に豪壮な本邸を、そして東京・渋谷の金王町に華麗な別邸を建築し、人脈ネットワーク形成の一大拠点とした。

 だが、本邸は太平洋戦争後に火災で、また金王町の別邸は昭和二十年四月、米軍B29爆撃機の空襲で共に灰となり、往時の栄耀栄華を偲べるものは皆無に近い。まさに〝兵どもが夢の跡”であって、そぞろ人生の無常観に誘われる。

 中川重春が逝って、既に四〇年。今、形として残っているのは男鹿市役所前庭に建つ胸像(昭和三十五年六月十二日建立)ぐらい。彼の墓(政徳院亀鑑法重日春大居士)も近年、遺族の手で男鹿市羽立の中川家墓地から秋田市内のさる寺院墓地に移された。やはり「天下は一人を以って興り、一人を以って亡ぶ」ということか。

渡部 誠一郎 (S25卒)