スイスで歌う

執筆者
森松 洋
卒業年
(S36卒)
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 本年三月二十六日、正午前に小雨の関西国際空港をスイス行、フィンランド航空七八便のA330機が、ゆっくりとテイクオフしてゆく。機内の座席には、私を含む十四人の男性の歌仲間が座っていた。全員、一九四〇年代生まれなので、我がグループ名は『ザ・フォーテーズ』という。

 団員の一人の姪がスイスに在住しているのだが、その姪のお招きで、我々はスイスに歌いに行くことになったのだ。

 団員の平均年齢は六十六才で、皆の職業もさまざまだ。会社員、薬学と理学の大学講師、餃子店の経営者、不動産業を営む演出家、リタイヤ後の自由人、ライターなどだ。

 各自の出自は異なるが、男声ヴォーカルとして各パートが一糸に声を合わせ、『ザ・フォーテーズ』としての素晴らしいハーモニーを創りあげるという崇高な達成目標に向けて、我々は日々、研鑽と努力を積み重ねてきた。そして今、これから向かう目的地のスイスで、その一つの成果を試みようとしていたのだ。

 日本人のCAを含む同航空の機内サービスは悠然としてキメ細かく、とても心地がよい。同機はヘルシンキを経由して、十一時間の飛行の後に、スイスのチューリッヒへと降り立った。あの映画「サウンド・オブ・ミュージック」で、ジュリー・アンドリュースが扮するマリアとその一家がナチスドイツから逃れるため、アルプスの山々を越えて辿り着いたスイスへ、私は初めて足を踏み入れた。

 空港から我々は、団員の姪の朱美(ひろみ)さんと、朱美さんのパートナーであるスイス人男性のシュテファンさんに引率されて、我々の宿へ向かいながらチューリッヒの市中を見て歩くことにした。ちなみに二人は、演奏会で司会と伴奏を務めてくれることになっている。

 演奏会本番の朝がきた。朝食前、私は歌仲間の一人と我々の宿の周辺を散策することにした。スイスの澄んだ青い朝空の下、樹木に囲まれた瀟洒なスイスの白造りの家々が、緑なす緩やかな勾配の草地にふさわしく鎮座して、点在していた。

 我々の宿に戻るとき、一軒の人家から、ブラウン髪の、すらりとした体型の若く可愛らしい、美しい娘が現れた。我々は見合って、思わずお互いに微笑みを交わした。スイス的な透明感のある、健げな明るさの娘の容貌に、スイスのこんな場所で会えるなんてと、私は瞬間、心弾む喜びを感じた。と、そのとき、〝そんな我々″を、通り掛かりのスイスのおばさんが、ちろっと見て、おばさんは無言で側(そば)にきて、歌仲間からカメラを借り受けた。その美しい娘と私はポーズを作って、おばさんに相対すると、数秒後、おばさんは我々に向けてシャッターを切った(右写真)。

 朝食後、宿のロビーでくつろいでいると、「日本の方ですね?」と、長身でメガネをかけた年輩のスイス人の男性が英語で私に話し掛けてきた。「そうです」と私が言うと、「おいくつですか? 私は四十三年生まれです」とその男性が言ったので、「私は四十二年生まれです」と私が答えると、「おおう!」と彼は言って、我々は感極まって思わず握手してゆく。男性の側に、小柄なブラウンのショートヘアのきれいな女性が立っている。その女性は彼の奥さんである。私は私の家内が六十二才だというと、奥さんは六十才だといって、「おおう!」と我々は、また喜んだ。

 このご夫妻――ヘルマン夫妻は日本が好きで、これまで二回来日しているという。嬉しく思った私は今晩の我々の演奏会の、運よくたった一枚残っていた入場券とパンフレットを、御主人にお渡しした。

 さて、時は二〇一四年三月二十九日(土曜日)十九時三十分、、場所はチューリッヒ郊外のジングザル町の公会堂で、『ザ・フォーテーズのスイス演奏会』の幕が切って落とされようとしていた。

 ――私は全日空を定年退職後、地元の「川西メンネルコール」という男声合唱団で十一年間歌っているのだが、この『ザ・フォーテーズ』は、その「メンネルコール」の若手の有志が一昔前に立ち上げたグループなのである。団員の構成はトップテナー四人、セカンドテナー三人、バリトン三人、バス三人、そしてベース一人(楽器のベースが男声合唱団に配置されるのは珍しいのだが)という十四人構成である。私の担当パートはバリトンで、日本人男性の最も平均的音域といわれるパートである。

 ジングザルの会場は満員で、五十人ほどの老若男女のスイス人の聴衆が椅子に座って、はるか日本からやってきた十四人の野郎どもを見詰めてくる。

「これは日本の心の歌です。」

 と、上下濃紺のワイシャツとズボンに薄紫色のネクタイを結んだ司会のシュテファンさんが歯切れのよいドイツ語で、聴衆に語りかけてゆく。続けて、流れるようなピアノの伴奏の音色が、上下濃紫色のドレス姿の朱美さんの指から流れ、このザ・フォーテーズ演奏会、開幕歌である「母」の歌が、日本語でたっぷりと抒情を含んで場内に流れてゆく。

  ふるさとの 山の明け暮れ

  みどりのかどに たちぬれて

  いつまでも われ待ちたまう

  母は かなしも
  

  幾山河 とおくさかりぬ

  ふるさとの みどりのかどに

  いまもなお われ待つらむか

  母は とおしも
  

    「母」 竹久夢二作詞・小松耕輔作曲 

 演奏会、第一幕は『日本の四季』として、「早春賦」、「花の街」、「夏の思い出」など六曲を抒情的にしんみりと、続けて第二幕は『日本の笛』として、「びいでびいで」、「あの子ンの子」、「仏草花」など六曲を小気味好く歌ってゆく。場内はシーンとして我々の歌に聴き入っていた。

 ――我々のコスチュームは、トップテナーでもある指揮者の石野さん以下十三人が白ブレザー、黒長袖カッターシャツ、黒ズボン、黒のベスト、エンジ色蝶ネクタイ、黒靴といういで立ちであった。ベース演奏者の植木さんだけが、白の蝶ネクタイを付け、黒のカーボーイハットを被って、粋にベースを操っている。

 我々は、会場の橙色の板床から五十センチメートルほどの高さにしつらえられた舞台上に、二列に立って歌ってゆく。私の位置は最前列で、丁度、指揮台に立ち指揮を振る石野指揮者の前だった。客席の最前列左手席には、今朝、宿のロビーで出会ったヘルマン夫妻が座ってくれていた。

 第三幕は『ヨーロッパの歌』として、「ミサ」、「ベニ ベニ エマニュエル」、「アヴェ・マリア」、「ツム ザンクス」の四曲を原語で歌ってゆくと、場内には静謐(せいひつ)な喜びの雰囲気がひしひしと我々を包んできた。

 第三幕が終わり、十分間の休憩のあと、第四幕が始まった。客席の観客は誰一人として、席を立ってはいなかった。

 第四部は『ザ・フォーテーズの持ち歌』として、日本の歌をまた、日本語で歌うのである。

「この歌は、日本の東日本大震災への応援歌として作られました」

 と、シュテファンさんが解説してから、チャリティーソング「花は咲く」を歌ってゆくと、私は思わず涙してきた。客席の最前列右席に父親らしい男性と座っていた八才くらいのスイスの少年が、じっと私を見つめてきたので、一瞬、私はこの子に私の涙を気付かれたのではないか、と思った。

 我々は「贈る言葉」、「少年時代」、「村祭り」、「椰子の実」、「ふるさと」と、日本の情緒をしっとりと歌いあげていった。そして我々はラストソングの「ソーラン節」を、そろいの法被を着て歌ってゆく。ソリストの田中さんが小節の効いたソーラン節をソロで歌ってゆき、十二人が伴唱していった。

 ソーラン節が終わると、会場には一瞬、静寂が訪れ、そのあと、万雷の拍手が湧き上がって、直ぐにアンコールの声が起こった。アンコールに答え、我々ザ・フォーテーズはスイス民謡の「es Buurebüebli(農家の少年)」を歌い始める。

  (エス ブレビュリ マン イニィート)
  Es Buurebüebli mani nid,

  (ダス クセート メ ミア ボール マ ユッヘ)
  dass gseht me mir wohl a – juhe!

  ……

 スイスの人々が愛してやまないこの歌を、正にスイスのこの現場の舞台で歌える喜びに、心震えながら私の意識は高揚して、歌っていった。客席の人々は静聴しつつも熱聴していた。――そして我々の合唱が終わった。

「ヴンダーバール!」(素晴らしい!)

「トル!」(すごい!)

「ダス ヴァー グート!」(良かったよ!)

 聴衆から、感動した歓声が次々と巻き起こる。そして人々は椅子から立ち上がって、狂喜してゆく。
 我々が会場を退場してゆくと「ダンケ シェーン!」(本当にありがとう!)と人々は真顔で、笑顔で、我々に熱く声を掛けてきた。

 日本へ向けて出立の朝、私は暖かいおもてなしを受けた宿の御主人と奥様と、熱く握手を交わした。我々はスイス市街鉄道の、宿の最寄り駅「エッグ」のホームで、チューリッヒ空港行の市電を待っていた。

 と、そのとき、プラットホームにヘルマン御夫妻が現れた。なんと、ご夫妻はわざわざ、我々を御見送りにきてくれたのである。ご夫妻と我々は一人ずつ、熱く握手を交わしてゆく。やがて二台連結の電車がホームに到着した。

「アオフ ヴィーダーゼーエン」(また会いましょう)

 御夫妻と我々はお互いにお別れの言葉を交わして、我々は電車に乗り込んだ。電車が動き出しても、我々はホームに立って我々を見送ってくれる御夫妻と、お互いに見えなくなるまで、いつまでも手を振りあっていた。

カテゴリー
国内から
掲載日
2014-07-06

森松 洋 さん からのメッセージ

謹啓 今季の梅雨は雨の少ない過ごしやすい日和が続いております。

秋田高校同窓会事務局様には日頃よりご高配を賜り心より厚く感謝申し上げます。
関西に在住するOBと致しまして、母校が甲子園に出場する機会を今年こそはと、待ち受けております。

私、昭和三十六年に母校を卒業させて頂き、学習院大を経て全日空に定年まで勤務致しました。同社を退職後、地元の川西市の男声ヴォーカル合唱団で歌を楽しんでおります。

私のグループは、今年三月末から四月初旬にスイスに旅行しまして、一日、スイスで歌ってまいりました。
大変僭越とは存じますが、そのときのコンサートの文章を別添の通り寄稿させて頂きたいと存じます。

これから暑さも厳しくなります。
事務局ご一同様のご健勝とご繁栄母校の益々のご発展を心よりご祈念申し上げます。

敬白 

平成26年6月16日 森松 洋