わが青春…学びやと共に (5)

中台旧校舎

2014年09月01日更新

あれから半世紀

赤沼 侃(昭和39卒)

 昭和36年4月、秋田駅前校舎最後の入学式が挙行された。村岡一郎校長の式辞は、校歌の解説と「硬式野球部のエースであった渡辺投手が一浪の末東大に合格した。初心を貫いた文武両道の鑑である」といった内容で「勉強オンリーの学校に入ってしまったのかな」と入学したことを少し後悔していた。

 入学してすぐ、応援団員が「昼は応援練習をするから早飯して、体育館に集まれ」とふれ回ってきた。中学との違いに驚いたが、じきに慣れて、3校時どころか2校時終了時でも食べられるようになった。廊下は帽子を被って歩くし、下駄を履いて通学するし、あっという間に秋高生らしく? なっていった。

 校舎の外見は、映画「二等兵物語」の兵舎のようだったが、校内の汚さはより酷く、体育館への廊下は根太が折れていて、歩くとトランポリンのように弾むし、窓の桟には厚さ5mmもの綿ゴミが化石のように硬く積もっていた。長い間、汚い雑巾を絞らずに撫でていた結果、層を形成したものだろう。外壁の染みは、2階から掃除後の汚水を壁伝いに流していたものだった。体育館は古くて狭く、卓球部、篭球部、バドミントン部、体操部などがひしめいていた。正に古い校舎の末期症状だった。

 在籍したバドミントン部では、トレーニングを兼ねて新校舎まで数回走ったことがあり、建設中の内部を見ることができた。工事のおばさんたちから「こんたいい校舎さ入れていいな」と言われたが、高校生の目から見ても施工は雑で下手だった。しかも2、3階には廊下がない。「厳冬期はベランダを歩けるか」と疑問も生じた。案の定、引越して間もなく、雨漏り箇所があり「鉄筋バラック」と命名された。北国の冬を知らない沖縄の人が設計したらしいが、スチーム暖房もほとんど役に立たなかった。

 後日談だが、施工業者は数年後に倒産した。大学卒業後、三傳商事に入社した私はその業者の焦付債権が残っているのに気付き、貸倒処理を担当した。皮肉な巡り合わせであった。

 新校舎の教室には個人用のロッカーがあった。出席番号順に算用数字の横並びで割り当てられると思い、さっさと自分のロッカーを決めて、中にあった鍵を確保し、ほくそえんでいた。甘かった。担任で国語の北川茂治先生は、教科書どおり右列から縦並びにロッカーを指定し、鍵は集められてしまった。まだ1年生が入学していなかったので、I君と無人の教室から自分のロッカーと同番号の鍵を入手。マイ・ロッカー気分だった。

 ところが、閉めたのに開錠するイタズラ者がいた。防衛のため、錠を分解して改造し、マスターキーでも開けられない錠を作った。鍵も自分で作り「ゴロッ」としていた。

 当時は定期券購入のための「通学証明書」発行に時間がかかって不評であった。「割印を押すだけなのに」という。”民衆”の声に応えて消しゴムで精巧な割印を作り、押印待ち証明書が多い日に限り数枚押してやった。何も問題は起きなかった。

 3年生になった昭和38年4月、鈴木健次郎校長が赴任してきた。「汝、何のために其処に在りや」の訓示は、ホジなし高校生の心にも強く響いた。今でも迷った時など、思い出しては軌道修正している。


3年ぶりに復活した運動会の仮装行列(昭和38年、先頭右が筆者)

 この他にも、運動会が復活して我が白雲隊が紫雲隊に大逆転して優勝したこと、練習なしでボート競技に出て腹切りしてしまったこと……等々、次々と新旧校舎の思い出が浮かんでくる。学校の勉強は嫌いだったが、社会に出てからは伸び伸びと仕事に打ち込んでこられた。お蔭で、高齢者になった今も現役で仕事を続けていられるのだと思う。私のような成績の悪い生徒を落第させることもなく「伸び代(しろ)」を残してくれた秋高に感謝している。

 卒業近くになって、某組で某先生が「お前たちのような成績の悪い学年は見たことがない。秋高開闢(かいびゃく)以来最低だ。秋高の恥だ」と言ったという話が聞こえてきた。「オレも随分平均点を下げて足を引っ張った」と責任を感じたものだった。

 そんな男が今、後輩たちには「秋高に入って褒められたりいい気分になったことがあるだろうが、それは校名を高めるような実績を残した先輩たちのお蔭であって、君たちはその恩恵を受けたに過ぎない。今こそ『やっぱり秋高出は違う』と言われるような仕事をすることが母校や先輩への恩返しとなり、伝統を守ることになるのだ」と言い聞かせている。

赤沼 侃 (S39卒)

赤沼 侃あかぬま ただし さん (S39) プロフィール

昭和44年3月武蔵大学卒。同年三傳商事(株)入社、同55年課長。同60年4月(株)アキタシステムマネジメント部長、同61年取締役、同63年常務取締役、平成11年代表取締役専務、同14年代表取締役社長、現在に至る。