あとがき

秋田県立秋田高等学校同窓会副会長「先蹤録」刊行担当 小玉 得太郎

2013年11月01日更新

 明治六年「洋学校という超ハイカラな濫觴(らんしょう)を持つ秋高」が佐竹義和公の学術振興が色濃く残る「師範予備科」と融合して「秋田中学校」が誕生した。いわば秋田近代史の始まりでもある。

 それから一三〇年。

 平成十二年八月二十日に開催された同窓会総会で「ひとつここらで先輩の事跡をたどってみようではないか」という提案が成されて満場一致で可決された。

 「秋高の歴史にみる人物像」という名称で準備に入ってから丸三年、丸山会長命名の「先蹤録」が世に出ることになった。

 簡単なことではないとわかりつつも、ずるずると引き込まれたいへんな労煩と桎梏に見舞われることになった。参考になるものといえば秋田県が出した「先覚五巻」と県立博物館で建てた「先覚記念室」のファイルくらいのもので、あとは全くの手探りだ。調査に関する制約、遺族の方々の問題、更には検証・監修に至るまで、「機能」を持っていない同窓会としては身にあまる課題であった。だが「一ニ〇周年」に校史資料館として「羽城館」が建立され、その壁面に著名な先輩たちを掲額するという事業が先行していた。

 それはそれでよいが現場的な犬馬の労を一体誰がとるのか。私の胸中ひそかに一人の「能力」が考えられていた。小林良弘さんである。足と汗でかけずり廻っていた彼が、その調査の途中、東京のまち角で倒れて救急車で運ばれるという椿事までおこし、まことに相すまぬことをしたと思っている。

 次は誰に書いてもらうかであるが、これ亦難題。度重なる刊行委員会で、現職国語担当の柴山芳隆教諭の名が浮び上り、かねて私が注目していた期待もあって、直接面談して話が決った。問題は監修であるが、結局一人で検閲することの不可能を知り、その分野の研究者が分担検証することによってより正確を期そうということになったが、「ならばいっそのことこの人は私が書いてやろう」と自ら起草した渡部誠一郎さんのような助っ人まで現れた。仁平高、河村重治郎、西村祥治、中川重春の四人がそうして書かれた「渡部原稿」である。

「先蹤」とは先人の足跡に鑑み己の生き方の一助にという意味を込めた言葉であるが、この事業を通じてわかったことは、なんと秋田中学及び秋田高校は優秀な学窓であるか。秋高の歴史そのものが日本の「知的財産」となっているではないかということである。その伝記は色褪せるどころか、今もって脈々と秋高健児の一人一人に息づいているという現実の姿に驚嘆したのである。

 今、日本国にかつて歴史上になかった「国境なき個人の時代」が到来した。姿を変えた福沢諭吉、姿を変えた新渡戸稲造、姿を変えた内村鑑三の再来が待望されいるのではないだろうか。

 ペリー開国一五〇年。絶好の一著を刊行することが出来た。一人千頁でも書き切れないほどの「巨人」たちのことをわずか三五〇頁の天地に押しこめてしまったが、これで終わったわけではない。この一著の刊行が新しい「秋田高校」の出発の日でもあろう。先覚に学び、われわれの秋田高校の歴史のあるかぎりこの「先蹤録」は生き続ける筈だ。

(平成十五年一月十七日 阪神大震災の日)