発刊に当たって

秋田県立秋田高等学校同窓会会長 丸山 健

2013年11月01日更新

 校歌の一節に「先蹤追ひつつ未来の望 ゆたかに健児は其途進む」とあるが、本書の題名は、これによった。辞典によれば、「蹤」とは「あしあと、故に足扁」と説かれ、「先蹤」は「先人の事跡、前の時代の実例、先例」などを意味する。古くは「平家物語」の中に「木曽殿かやうの先蹤を忘れ給はず」の用例がある。

 また中国晋代の史書「晋書」(六四八年)には「棺を蓋いて事定まる」の一文がある。人の生涯の事業や性行の真価が定まるのは、生前ではなく、死んでこの世を去った後のことである、との意である。この点、本書で取り上げた先人は、没後三十年を原則としているから、もはや評価がゆらぐとは考えられない。当然、卒業した学校は今の制度下ではない。

 然し本書では、一般に用いられる「旧制・新制」の語は、原則として使用しなかった。そういう学校名は便利であるかもしれないが、正式には過去にも現在でも存在しないのである。参考としたのは、昭和十五年の「羽城」に「官立上級学校入学者調」、また私の記憶では、静岡市郊外に「官立静岡高等学校生徒逍遥之碑」があったことである。それらに倣って、たとえば「旧制高等学校」とはしないで「官立高等学校」とし、戦前の「東大」も「東京帝国大学」として、言わばその時々の卒業証書に記載されたであろう校名とした。

 私は昭和九年に県立秋田中学校に入学した。校舎は東根小屋町にあり、通りを距てて、中通尋常小学校と営林局があった。校舎はすでに老朽して一部は不使用の空き家で、校友会歌にあるように、正に「古きいらかの面影」が残り、また「踏め楢山の原の土」と歌われた「楢山グランド」は学校から徒歩数分、凡そ一万坪の広さであった(一坪は約三・三〇六平方メートル)。明治三十四年に完成し、昭和十一年、秋田中学校の手形移転まで存続した。入学した時は志願者三百六十二名、合格者は二百五十六名、制服は黒色、六月からは霜降色、制帽も黒色で白線二条、制靴も黒色の編上靴、教練の時のゲートルも黒色であった。しかし、翌十年からは、すべてカーキ色に変わり、やがて制服は国民服、制帽は白線不装着の戦闘帽の型になって、ニ十年八月の終戦を迎えた。本書に登場した先輩の多くは、その多感の春秋を、今述べた束根小屋の学び舎で送られたのである。

 現在、母校の近くに建っている「羽城館」(校史資料館)のホールには、この『先蹤録』の先人の写真額が掲げられている。この建物は、昭和四年に職員・生徒によって秋田市仁別字栗畑に植林された木材を使用し、標札の揮毫は昭和十二年卒の藤崎吉次氏、材板は昭和十七年卒の根岸秀治氏の盡力によった。

 終りに、創立百三十周年に当たり、国立七大学(往時の帝国大学)の中、東京・東北の二大学の総長が同窓会員であるという空前の事例を付記する。