寺崎 広業 (てらさきこうぎょう)

近代日本画壇の巨匠

2013年11月22日更新

四歳から絵筆

 寺崎広業は、慶応二年(一八六六)二月二十五日に、秋田藩家老職にあった寺崎家の第一子として、秋田市千秋明徳町(旧古川堀反)で生まれた。現在の広小路のカトリック教会のある辺りである。母親は妊娠中に離縁になっている。

 戸籍名は広業(ひろなり)であったが、周囲の者は皆「こうぎょう」と呼び、そのまま通号とした、後年は、別に、宗山、天籟山人などとも号した。

 広業は厳格な祖母の手で育てられたが、絵筆は四歳のころから持っていたという。もと家老の妻である祖母は、そうした方面への理解があった人らしい。

 学校教育の方は、維新後に父親が始めた初級学校などを経て明治十年に太平学校変則中学科に入学しているが、一年足らずで退学している。父親が学校経営に続き、料理屋にも失敗して経済的に困窮したからである。

 そうしたことでは将来が立ち行かないと心配した乳母が、夫の長谷川氏に頼んで成人まで引き取って面倒をみようということになり、広業は十四年に秋田医学校に入るが、医学書は高く、うどんやそうめんを扱う長谷川家の家業も手伝わねばならずといったようなことで、この医学校も二年ほどで退学を余儀なくされる。

 当時、秋田には小室怡々斎(いいさい)という狩野派の画家がいたので、もともと絵の好きだった広業は長谷川家とも相談のうえそこに入門し、「秀斎」の号をもらった。これが広業の画家としての出発点であった。

 いつまでも長谷川家の厄介になっているわけにいかない広業が、一本の筆を頼りに遊歴の画家となったのは十九歳の時であった。まず、当時景気のよかった阿仁鉱山に赴いたが無名の青年画家ではとうてい生計を立てることができない。

 花輪の方に行ったところ、寺崎家とは縁戚関係にある鹿角郡長・戸村義得に巡り合い、戸村の紹介で郡役所の庶務受付け係として採用してもらって、しばらく糊口をしのぐことができた。

上京して本格的に修業

 広業に幸運が訪れたのは二十二歳の時であった。広業が怡々斎に入門して間もないころに描いた絵を見た平福穂庵(百穂の父)が、広業に上京を促してきたのである。穂庵は当時すでに東京で名を成していた。

 広業は勇躍穂庵のもとに赴くが、穂庵の精緻な感覚と広業の闊達磊落な性格とは相容れないものがあり、広業は四ヵ月ほどでそこを去り、再び放浪の旅に出る。

 足尾銅山に行き、日光の大野屋旅館に落ち着いた広業は、旅館の仕事を手伝いながら揮毫の依頼に応じる生活を始める。最初は注文も少なかったが、たまたま描いた美人画が人気を博して依頼者が増え、たまった宿料も清算して一年半後には再び東京に返り咲くことができた。

 東京に戻った広業は穂庵の仲介によって、出版業を営む東陽堂に勤めるが、結果的に広業はここでおのずからにして徹底した画技習練を積むことになる。

 東陽堂では「絵画叢誌」「風俗画報」の二誌を発行しており、前者の挿絵は、中国、日本の各派古名画を復元掲載するのだが、まず原画を丁寧に模写し、それをまた石版画の原版に縮小するという根気のいる作業であった。広業はそれを三年間やり通したのである。

 一方の「風俗画報」との関わりでは、美人画の手法を体得したのが大きかったと言われている。

 一連のこうした修行過程を通じて、一宗一派にとらわれない、八宗打って一丸となった広業芸術の基礎が築かれていったと考えられる。

 東陽堂で生計の資を得るかたわら、広業は白身の創作にも精を出し、明治二十三年四月に上野公園で開催された第三回内国勧業博覧会では、無名画家からいきなり「東遊図」で入選して褒状を受けた。

 翌二十四年九月には日本青年絵画協会が組織され、十一月に臨時研究会が開催された。広業はそこに、狩野派風に描いた中国人物「藍菜和図」を出品して最高の一等賞を獲得した。他に邨田丹陵や山田敬中も一等賞を受けているが、二十五年に広業が結婚した菅子は、丹陵の姉である。

 向島に新居を構えた広業だが、結婚のあくる年四月、仲間と市川方面に写生に出かけている間に住まいが貰い火で全焼し、粉本やデッサンの類をすべて焼失してしまう。しかし広業は、これからいよいよ広業の絵を描くことにしよう、と平然としていたという。広業の負けじ魂が言わせたのであろうか。

東京美術学校教授

 広業が東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)の助教授に抜擢されたのは、明治三十年三月であった。ところが、翌三十一年には岡倉天心校長排斥事件が発生する。岡倉校長が辞任のやむなきに到ったのにともない、橋本雅邦以下、教授、助教授十七名が一斉に職を辞することになり、校長支持派の広業も行動を共にしたのであった。

 美校を去った一団は、評議員長天心、主幹雅邦という体制で新たに日本美術院を創立、もちろん広業も直ちにその一員となり、この年には仙台、盛岡、秋田、大曲、横手で日本美術院絵画共進会を開いている。

 美校では岡倉の後任に久保田鼎を任命したが久保田は間もなく辞し、正木直彦が校長に任命された。正木と岡倉の関係はよかったので、相談の結果、広業と下村観山が美校に戻ることになり、二人は三十四年九月に教授として就任した。広業はこの後十八年間美術学校の教職にあって多くの優れた弟子を世に送り出していくことになる。

夏目漱石の批評

 「売れっ子は東の広業、西の(竹内)栖鳳」と言われた一時期があったくらい広業は自身の創作活動にも打ち込み、各種展覧会の入選者の常連となって弟子も次第に増えていく。

 そうした中の明治四十年、第一回文部省美術展覧会(文展)が開催された。日本画の審査員に選ばれた広業がそこに出品したのは「大仏開眼」である。これは、縦二三〇センチ、横三二三センチで、場内第一の大作であった。実際に奈良に取材し、東大寺の「大仏開眼・大仏殿落慶供養図屏風」を参照した作品だろうと言われている。

 この第一回目を初め、広業は、自身の生存中に開催された十二回の文展に一度も出品を欠かしたことがなく、彼の代表作もほとんどこの期間に制作されている。それらを少しみてみよう。

 第三回の文展出品作は「渓四題(雨後・秋霧・雲の峰・夏の月)」「秋山雨後」の二点である。前者は南画的な用筆と土佐派の画法によっており、新南画と激賞された。後者は、写生的かつ大和絵的で、後年の新興大和絵運動につながるとされている。専門家は後者を本命としたが、一般人気は前者に集中したという。

 第四回の出品作三点のうち「夏の一日」は、前年の「渓四題」をさらに写生南画的に醇成したもので、出色の作であった。

 西欧印象派を意識しながら東洋的写実を目指したと言われ、夏目漱石の有名な批評もある「瀟湘八景」は、大正元年(一九一二)、第六回の出品作である。同時に出品された横山大観の同画題の作品を漱石が一緒に観賞して、「八景よいやという洒落かも知れぬ。実際両方を見て行くと、まるで比較することができぬ程、無関係な絵である」と朝日新聞に書いたのであった。

 画題は同じだが、図柄といい筆致といいまったく異質の絵であったので巧まずして両大家の競作の形になり、大変評判になったのであった。

 なお、この年、広業は小石川関口町にある故本間耕曹氏の邸宅を購入、画室を増築し、庭を改造して大邸宅を構えた。世に関口御殿と称され、一説に門下生二〇〇人と言われた。また、翌年七月には、長野県下高井郡上林温泉に別荘「養神山房」をしつらえ、大正三年七月に完成するが、これは後に「長寿山広業寺」と呼ばれることになる。

 時どきここに滞在しているうちに広業は次第に山水画を多く描くようになり、日本の山水画に新機軸を開いていくことになった。

 第七回の出品作「千紫万紅」は明治美人画の一到達点を見せていると言われ、第八回の「高山清秋」は広業芸術の最高点と評されている。これは、上林で取材したもので、遠く日本アルプス連山、中景に飯綱・黒姫・妙高山、近景に白根山を望む壮観を、南画と大和絵をミックスした手法で描いたもので、「渓四題」の完結点との評価が高い。

 大正六年七月、広業は川合玉堂、富岡鉄斎、下村観山らとともに帝室技芸員に任じられた。これは、当時の芸術家にとっては最高の栄誉であったが、広業にはその直後から咽喉ガンの症状が現れた。豪胆な広業はそれにもひるまず、第十二回文展出品のため大作「杜甫」に取りかかった。広業の意図は左右風景の三連作であったらしいが、中央の人物だけで絶筆となった。

 諸流派を総合した画格をもち、制作意欲が旺盛で、画壇の主導的存在であった広業は、江戸時代の谷文晃に擬せられことがある。

 しかし、七十八歳という長寿に恵まれた文晃より二十年以上も若くして広業は人生に幕を下ろさねばならなかった。

 大正八年二月二十一日、最期まで意識のしっかりしていた広業は、家人、知人、門人たちにそれぞれ別れのことばや訓戒を与え、大勢の絵画ファンに惜しまれながら不帰の客となった。まだ五十三歳であった。

柴山 芳隆 (S36卒)