安藤 和風 (あんどうわふう)

<自由の群像>碑に記名された新聞人

2013年11月29日更新

犬養毅の影響

 慶応二年(一八六六)一月十二日に、秋田市牛島橋通町(旧七軒町)で生まれた安藤和風の幼名は国之助である。『論語』に根拠をもつ和風を名乗ったのは明治十七年(一八八四)、十八歳のときである。それも、正しい読み方はハルカゼで、ワフウという音読みは通称ないしは俳号である。

 なお、俳号・雅号としては他に、柳外、夢蝶、時雨庵、大蕗軒、白松子、太平山人などを用いている。

 築山小学校の前身である楢山学校を終えた十三歳の和風は、明治十二年に県立太平学校中学師範予備科に入学するが、維新で没落した士族のならいで安藤家の家計は火の車、和風も半年ほど在籍しただけで退学の悲運を免れ得なかった。

 当時は、自由民権運動が澎湃として全国で展開されていたが、秋田県もその例外ではなく、多感な和風もそうした風潮の中で十五歳のときに楢山南部の青年討論会を組織し、翌年には秋田青年会を結成して大いに時事問題を論じた。

 時代の流れに強い関心をもつ和風は、明治十五年七月に保守派である秋田中正党の秋田日日新聞に入社するが、十一月には、改新党系の秋田日報社(秋田魁新報社の前身)に転じた。これが、長年にわたる和風と秋田魁新報の結びつきの第一歩であった。

 当時の秋田日報は、昭和七年の五・一五事件で凶弾に斃れた犬養毅が主筆として論陣を張っており、和風も犬養の影響を受けていたであろうことは想像に難くない。

 入社の翌年、和風は秋田日報の仮編集人になるが、町田忠治(当時東京帝大の学生)など社外から寄稿された論説が官吏侮辱罪に問われ、裁判の結果、翌年三月から七月まで四ヵ月間下獄を強いられた。

 なお、和風は大正元年(一九一二)に再度獄中生活を経験するが、これは、盟友井上広居の代議士選挙にさいし、選挙違反の罪を一身に引き受けた義侠心から出たものであった。

 明治二十一年、和風は彼の才能を惜しむ篤志家の援助によって上京し、翌年、高橋健三の私立東京商業学校に第一期生として入学、二年後の一月に卒業すると同時に御法川直三郎商店の大阪支店に就職、八月には堀本阿似(あい)と結婚し、十月には秋田県の内務部に雇われて帰秋した。

 その後、秋田市役所、第四十八銀行などに勤めるが、三十三年九月、三十四歳の年に秋田魁新報社に再入社し、以後、生涯を閉じるまで同紙に拠って健筆を振るうことになる。

 秋田魁新報は、中央、地方を通じても全国でも四番目、地方新聞としては二番目に古い歴史をもつ新聞である。

「魁の安藤か、安藤の魁か」

 多彩な能力を多方面にわたって華麗に花開かせた和風だが、その中核を成すのはもちろん新聞人としての活躍である。「魁の安藤か、安藤の魁か」という表現が端的にそれを現している。

 復帰した翌年に早くも主筆に抜擢された和風は、「文章報国、蹈正勿懼(せいをふんでおそるるなかれ)」という社是のもと、正鵠を射た論陣を活発に展開していく。

 眼前の事象に対する的確な認識から出発し、古今東西にわたる該博な知識を援用して、将来への予言的先見性に満ちた論説を展開する和風の行き方は、県内はもちろん全国的にも高い評価を受け、国民新聞社長から毎日新聞社賓となった新聞界の大御所徳富蘇峰も賛辞を惜しんでいない。

 和風の筆は、政治、経済、社会、文化、人事、風俗等あらゆる領域に及んでいるが、それを支えているのは和風の旺盛な読書力である。これまた古今東西の万巻の書を次々に読破し、その博覧強記ぶりは周囲の者たちを驚嘆させた。

 和風が蔵書の一部を初めて県立図書館に寄贈したのは大正五年のようだが、本人没後も遺族の手によって寄贈が続けられ、それらは今膨大な「時雨庵文庫」として県民に親しまれている。

 新聞編集者としての業績と同時に、新聞社経営の面でも和風の手腕を忘れるわけにはいかない。大正十二年、和風はそれまでの匿名組合組織を改めて、秋田魁新報社を資本金十万円の株式会社とし、編集、営業ともに近代的なものに一変させたのである。

 昭和三年(一九二八)、社長に就任した和風は社業の発展に見合う新社屋の建設に取りかかり、六年には、秋田市でもっとも新しい鉄筋コンクリート三階建ての社屋が誕生したのであった。

 新社屋の屋上で行われた社旗の掲揚式には、折から来秋中の若槻礼次郎首相、町田忠治農林大臣、田中隆三文部大臣も参列していかにも華やかであったと伝えられている。

 昭和十年頃から新聞に対する軍部の圧力が強くなってくるが、和風は敢然として自由主義の論調を守り、決して無体な権力に屈することはなかった。

 和風は、明治三十二年の初当選以来、市議会にも通算四期かかわっており、長年の幅広い功績に対して、昭和七年と九年には県から郷土研究や地方改良の功労者として、十一年には、市から市政功労者としてそれぞれ表彰されている。

俳人和風

 新聞人としてのみならず、文化人としても和風は第一級であった。その文化人としての中心をなすのは俳句である。

 和風の父和市は、独学で老荘の学をきわめたという篤学の人である。明治二十二年に秋田市に市制がしかれるや推されて市議会議員となった。世事にこだわらない磊落(らいらく)な性格で、三昧坊(さんまいぼう)の号で俳句もよくしたという。

 和風の文才は、この父に導かれて、年少の頃から見るべきものがあった。二十歳のときの作である新体詩「自由の歌」は、もともと大阪の詩誌「新体詩林 六号」に発表されたものだが、昭和二年に日本評論社の『明治文化全集 第五巻』にも転載された。新体詩が中央の刊行物に掲載されたのは、本県では和風が最初のようである。

 俳句の研究は東京遊学時代からすでに始めていたようだが、その成果はまず『今古俳家逸話』(明治三十四年)となって現れ、以後、『恋愛俳句集』(三十七年)『閨秀俳句集』(三十八年)『俳家逸話』(三十九年)『俳諧研究』(四十一年)『類題五明句集』(四十二年)『俳諧奇書珍書』(四十四年)『俳譜新研究』(大正元年)という具合に矢継ぎ早に続いていく。

 他方、作者としての和風は、明治三十一年に地元の文芸誌「文華」の選句を担当したのを初め、「俳星」(能代市)の創刊に参加、三十四年には「俳諧初しぐれ」(後改題して「蕗ずり」さらに改題して「俳詩」)を主宰している。

 また、個人句集としては『旅一筋』(昭和元年)『仇花』(五年)『朽葉』(十年)『残り葉』(十一年)などがよく知られている。

 なお、変わったところでは、宮森麻太郎著『英訳古今俳句集』に六句が英訳され、海外にも紹介されているということである。

 ともに江戸時代の俳人である松尾芭蕉と上島鬼貫を慕ったという和風の俳句は、自然観照よりも人事句にすぐれているというのが俳壇の定評になっているようだが、それだけ人間に関心が深かったということであろうか。

 『裸』と題した歌集(昭和六年刊)などもあるが、和風の中で俳句と並んで大きな位置を占めているのは郷土研究である。中央のジャーナリストとしても充分に成功するだけの才能と識見を備えていた和風だが、遊学した一時期を除き、生涯の大部分を秋田で過ごし、郷土のために働いた。

 早く、明治四十二年七月には、中央の新聞記者総勢二十一名を秋田に招き、安藤みずからの引率で一週間にわたって十和田湖などを案内、秋田の景観の優れていること、産業資源の豊富なことなどを宣伝した。帰京した記者たちは、それぞれ自社の新聞を通じて秋田県内に眠っている産業や観光資源の豊かさを広く読者に紹介した。

郷土史家和風

 その後も郷土発展のために努力を惜しまなかった郷土史家としての和風の仕事は、『秋田の土と人』二巻(昭和六年)『秋田勤皇史談』(同)『秋田五十年史』(七年)『秋田人名辞典』(同)などとして結実し、郷土史を研究する者にとって今でも貴重な資料となっている。

 句作三千、著書十数部という著作活動とは別に、秋田史談会を組織するなど、安藤は秋田城址の史跡指定に大きな役割を果しているし、秋田蘭画に対する造詣も深かった。

 あまり知られていないのは、ローマ字の普及に熱心であったことである。若い時分に東京の「ローマ字会」に入会し、秋田魁新報を主宰するようになってからも、紙面の片隅にローマ字欄を設けたりしている。

 スポーツではあまり名前が出てこないが、大正十年に始まり、戦争による長い中断はあったものの、平成十五年度現在で六十九回を数える全県少年野球大会なども魁新報社の主催であり、和風も主催者側の最高責任者として陰で大いに尽力している。

 和風は、昭和十一年十二月二十六日に七十歳で物故したが、昭和四十一年に、東京千代田区の千鳥ヶ淵公園にある〈自由の群像〉記念碑にその名が刻まれた。

 この碑は、わが国新聞界の先覚功労者を讃えるもので、ほぼ一世紀にわたる間に、言論の自由、世論の啓発に一生を捧げた、日本を代表する新聞人の氏名が刻されており、新聞人にとっては最高の栄誉である。

 よく名前の知られた人では、時事新報の福沢諭吉、江湖新聞の福地源一郎、日本の陸羯南、国民新聞の徳富蘇峰などがいるが、秋田県人でここに記名されているのは和風と、大正四年秋田中学卒の人見誠治の二人だけだし、東北地方全体を見渡しても、河北新報の元社長など数人がいるに過ぎない。いかに名誉なことであるかがよく理解できる。

柴山 芳隆 (S36卒)