二木 謙三 (ふたぎけんぞう)

文化勲章を受賞した 医学界の巨星

2014年01月03日更新

虚弱児童

 明治六年(一八七三)一月十日、秋田藩主の侍医であった樋口順泰の二男が秋田市千秋明徳町(旧土手長町上丁)で生まれた。謙三と名づけられたその子は、三歳のときに、土崎港に住まいする二木家の養子となった。二木謙三の誕生である。

 成績は優秀だが小柄で痩せっぽちの少年は、明治二十六年に秋田中学を卒業すると仙台の官立第二高等学校(東北大学教養部の前身)に進む。しかし、在学中にひどい神経衰弱に襲われて休学、官立山口高等学校に転じた後、東京帝国大学医学部に入学して、三十四年一月にそこを卒業した。

 官立山口高等学校は、明治二十七年に開校したが三十八年にいったん閉校となり、大正八年に再開されて、太平洋戦争終了後、山口大学に吸収されるまで存続した学校である。

 東大を卒業してすぐ、二木は、伝染病の研究と治療で知られる東京市立駒込病院に就職したが、その年はコレラが大流行していた。当時は、コレラとはコッホのコンマ菌だというのが定説であった。
しかし、それに疑問をもった二木は精力的に菌型分離に取り組み、コンマ菌以外の病原菌を発見、患者名をとって「竹内菌」と名づけた。

 二年目の明治三十六年は、東京に赤痢が大流行した。赤痢菌は志賀潔によって発見された「志賀菌」が世界で最初のものであったが、二木はここで新しい二種類の赤痢菌を発見し、「駒込A菌」「駒込B菌」と命名して学界の注目を集めた。

 後年、二木は、二木赤痢菌分類表を作成し、この分類表が、赤痢菌鑑別上の指標として長く用いられた。これは学者としては最高レベルの実績で、ノーベル賞ものという評価が高い。

 二木がドイツに留学したのは明治三十八年から四十一年まで、年齢で言うと三十二歳から三十五歳までである。ミュンヘン大学医学部のグルーベル教授のもとで、細菌学、免疫学の研究に従事した。

 留学中の二木は、周りのドイツ人学生たちが、このままでは二木は倒れてしまうのではないかと心配したほど猛烈に勉強し、グルーベル教授との共同研究で、「白血球の喰燼(しょくじん)作用、ロイキン及びプラキンの殺菌作用」に関する論文を発表している。

 生来虚弱で、子どもの時分にありとあらゆる病気を経験したような二木であったが、二十歳過ぎからの玄米食で健康体になっていた二木は、勉強はいくら努力しても倒れるものではない、という信念のもとに留学最後まで頑張り抜き、実際、病気に罹ることもなかった。

 帰朝後、四十二年からは駒込病院副院長として勤務するかたわら東大の講師も務め、大正三年(一九一四)には助教授に昇進して、学位も取得している。

鼠咬症(そこうしょう)スピロヘータの発見

 二木の学問上の大きな業績としては、鼠咬症の研究についても触れなければならない。

 鼠咬症というのは鼠の咬み傷から感染する病気で、咬傷がいったん治ってから、局所の腫脹疼痛が起こるとともに悪寒発熱し、皮膚に滲出性で紅斑模様の発疹ができる。咬傷部付近のリンパ腺は腫れて疼痛があり、弛張性の高熱が出る。熱は一、二週間で下がるが、同じような症状が繰り返しおこる厄介な病気だという。

 二木はその鼠咬症の病原菌の研究に取り組み、高木逸麿、大角真八等とともに、大正四年、その病原〈鼠咬症スピロヘータ〉を発見した。

 スピロヘータというのはらせん状の菌で、これに類するものとしては梅毒スピロヘータがある。梅毒の治療剤サルバルサンは、鼠咬症にも有効とのことである。

 大正八年に駒込病院の院長に就任していた二木は、十年からは東大の教授も兼任、医学界の重鎮として多忙な日々を過ごす。

 十三年夏には、従来の嗜眠(しみん)性脳炎や流行性脊髄炎と異なる病原の分離に成功、夏季脳炎として発表したが、これは今日の日本脳炎のことである。

 また、その三年後の十五年(昭和元年)には、みずから主唱して日本伝染病学会を設立している。

玄米博士

 二木は若いころから玄米食を始め、それによって自分は健康を得たと語って〈玄米博士〉の異名をとるほどその奨励に努めたが、二木式保健学の出発点となる『保健学』を上梓したのは大正八年であった。本書には保健衛生一般について詳しく述べられているが、中でも「食養法」が特に注目された。

 昭和二年(一九二七)には、健康幸福の十二ヵ条を発表しているが、その要点は以下のようになっている。

 一、早起き。二、全身冷水摩擦。三、適当な運動。四、よく噛んで食べる。五、白米より麦、麦より玄米がよい。六、酸性食品の肉よりアルカリ性食品の野菜の方がよい。七、腹八分目、湯水を飲む。水は万病の薬で、よい水なら生で飲むのがよい。八、食事は朝夕二回でよく、昼食は不要。九、よく働く。十、呼吸は腹式呼吸で静かに長く。十一、便通は一日一回。十二、善いこと、人のためになることを行う。

 現代に通じるものがほとんどで、健康の基本は昔も今も変わらないことがわかる。

 二木は、九十九歳まで長生きしたというギリシヤの数学者ピタゴラスをしばしば援用したようだが、ピタゴラスは生涯二食で、黒パン、野菜、蜂蜜を常食とし、肉食と飲酒はやらなかったそうである。

 二木が奨励した玄米食は、一般には、不味くて食べにくいというのでなかなか普及しなかった。そこで二木は、玄米の炊き方を説明し、玄米は決して不味いものではなく、美味しく食べられると強調した。

 昭和九年には『何故玄米食でなければならぬか』という単行本まで出版しているが、その要旨は、玄米を白米にすると、こめの栄養分は消失する。その割合は、固形分は一割、澱粉は七分、蛋白は三割二分、脂肪は九割、灰分は九割、有効繊維は九割二分、燐酸は九割の損失をきたす。従って白米の代わりに玄米を食べると、栄養ばかりでなく、経済的にも著しい利益となる、というものであった。

 こうした二木の説明に対して、玄米は栄養分が多いと言っても、消化吸収が悪いために、栄養になる分が少ないのではないかといった反論が出されたりしたが、二木はそれらにも丁寧かつ詳細に応じてあくまで自説の正当性を主張した。玄米博士の面目躍如というところである。

 玄米食奨励を含むこうした二木の一連の活動は、国民栄養学、国民健康学のはしりと評価されている。

文化勲章受章

 東大教授として自身の研究と後輩の指導に勤しむかたわら、二木式健康法をもって国民全体の健康のためにこころを砕く二木の活動は、先の鼠咬症スピロヘータ発見などの功績と合わせて高い評価を受け、昭和四年に日本学士院賞、十四年には東宮御成婚記念賞を授与されている。

 二木は、東京帝国大学医学部の教授として定年まで勤務したが、その他に、日本大学医学部、東京歯科医専、日本女子大学、実践女学校の教授や講師としても勤務し、また、豊島学園理事長、豊島丘女子高等学校長として、後輩の教育指導にもあたっている。教育者としても優れた業績を残しているのである。

 二木はまた、日本の精神文化を強調し、昭和七年に『古史読本』を編纂した。これは、『古事記』『日本書紀』からの抄録で、二木はその序文で「この書は、これを譬(たと)うれば、日本国の解剖で、日本の生理、日本の発生及び日本の発達史で、又日本の神髄である」と述べている。二木の活動の幅の広さが知られるところである。

 昭和二十六年に学士院会員に選ばれ、日本伝染病学会会長に就任していた二木は、みずから唱導する二木式健康法を実践して健康そのものの毎日を送り、以前にもまして重要で幅広い活動を展開していたが、医学を中心にした長年にわたる文化的功績に対して、昭和三十年には文化勲章が授与された。今日まで、秋田県出身者で文化勲章を受章した人は二木以外にはいない。

 さらに二木は、昭和四十一年に勲一等瑞宝章を受け、最高の栄誉に輝いたのであった。

 二木は晩年を東京新宿の自宅で送ったが、毎年夏には郷里の秋田に帰省するなど、生まれ故郷を忘れたこともなかった。

 昭和四十一年四月二十七日に、九十三歳の天寿を全うして二木はこの世を去った。

柴山 芳隆 (S36卒)