奈良 磐松 (ならいわまつ)

傑出した美術蒐集家にして書家

2014年02月07日更新

ストライキ

 奈良磐松は、明治十二年(一八七九)八月十五日に、奈良茂の二男として生まれた。

 秋田の奈良家の歴史は大変古く、弘治年間(一五五三~五八)に大和小泉村(現奈良県生駒郡片桐町小泉)から、一族とともに出羽の豊川村字上蛇川(現南秋田郡昭和町豊川)に移住したことに始まる。

 江戸時代初期のころ、もっと広い土地を求めて金足村字小泉(現秋田市金足小泉)に移り、宝暦年間(一七五一~六四)には、四十余ヘクタールを所有する大地主になっていた。

 金足小学校から土崎高等小学校を経て秋田中学に進んだ磐松は、寄宿舎生活を送るようになったが、三年生のとき、思いがけない事件に巻き込まれてしまう。

 明治三十年六月、奈良が若気のいたりで、当時の花街だった秋田市常盤町(現旭北栄町)に足を入れた。それを、日ごろ鬼よりこわいと恐れられていた将校上がりの浜田義夫舎監に見つけられ、即刻退学を命じられてしまう。

 奈良の助命嘆願と浜田舎監の排斥を求めて生徒たちが杉谷佐五郎校長に直訴するがラチがあかず、三年生全員がストライキに突入。

 ストライキに対する処分のための職員会議は大もめにもめたが、首謀者は放校処分とする方向に傾いていく。当時は、いったん放校処分になると、その後はどこの中学校にも転校できない決まりだったので、ストライキの中心になった生徒たちは全員退学願を出し、結局、校長の穏便なはからいで放校処分を免れて、それぞれ東京の私立中学などに転校したのであった。

 この時退学した九人の中には、奈良磐松のほかに、明石徳一郎(時事新報編集局長)、塩田団平(羽後銀行頭取、後述)、信太儀右衛門(衆議院議員五期)、菅禮之助(日本原子力会議議長、後述)などがいた。

『松雪鑑賞』シリーズ

 さて、単身上京した奈良は、東京専門学校(早稲田大学の前身)の政治学科に編入試験を受けて合格、学校からほど近い骨董品屋の二階に下宿した。秋田中学時代から書道を得意としていた奈良の美術品に対する興味は、このころから次第につよくなっていったようである。

 学校では坪内逍遙に傾倒し、同校の文科で開講していた逍遙の講義を聴講したりしているが、その一方で示源流の剣道の稽古にも励み、年余にして免許皆伝の腕前になっている。

 明治三十年頃の奈良家は、田地四百数十ヘクタールのほか、山林、宅地など膨大な資産を有する秋田県内屈指の豪農として知られていたが、父茂は六十歳を越えて老いのきざしを見せ、学校を終えた磐松は、半ば連れ戻されるような形で帰郷を余儀なくされる。兄の磐之助か夭逝していたため、磐松が家督を継がねばならなかったのである。

 明治三十四年、まだ二十二歳の磐松を残して父親が他界すると同時に、磐松は由緒ある奈良家を守ることに専念するが、次第に周囲の者が対外的な仕事に奈良を引っ張り出すようになり、推されて南秋田郡教育会会長、金足村村長、秋田県町村会会長などの職にも就くようになる。

 しかし、奈良は、それ以上社会に飛躍することを好まず、床の間や客間に書画を広げて静かに鑑賞する生活に意義を見出していく。

 それと同時に奈良の書画についての好みも漸次焦点が絞られるようになり、とりわけ江戸以降の日本画につよく興味が引かれるようになっていった。

 美術品の出来不出来を判定する能力は奈良生来のものであったようで、特別誰かから専門の訓練を受けたというのでもないのに、谷文晁や佐竹曙山などの秀作を、一点も偽物をつかむことなく入手している。

 大正年間に入り、奈良は、従来から所蔵されていたものや自身が蒐集したものを丹念に検討して、大正五年(一九一六)五月に『松雪鑑賞(一)』を刊行した。松雪は奈良の号だが、かなり若い時分から名乗っていたもののようである。

 同書に取り上げられた主な作品としては、尾形光琳「美人図」、佐竹曙山「竹に文鳥図」、谷文晁「湖山春晴図」、松村呉春「人物図」、田中納言「源氏物語図」、頼山陽「七言古詩」など一流作家の一流作品が数多く見られる。

 その後も奈良は収蔵品の整理紹介に努め、翌六年十二月に『松雪鑑賞(二)』、十一年一月に『松雪鑑賞(三)』を相次いで刊行しているが、第二集、第三集に収められた主な作品を以下に挙げてみると、酒井抱一「鉄線花遊雀図」、小田野直武「笹に白兎図」、円山応挙「蘭亭曲水図」、頼山陽「七言絶句」、葛飾北斎「墨堤舟遊図」、平福穂庵「祐天上人霊夢図」、狩野芳崖「仁王捉鬼図」、寺崎広業「山水屏風図」等の名作がある。

 『松雪鑑賞』はその後も続編を予定していたらしいが、残念ながら形あるものとはならかった。

秋田蘭画に高い評価

 自身では絵筆を取ることのなかった奈良だが、前述したように書道には年若いころから親しんでいた。

 奈良は初め、文徴明、北山雪山らの書風に引かれて概して楷書風の書をものしていたようであるが、研究熱心な彼は、古今の名筆を下敷きにしてやがて独自の書風を開拓、肉太で丸みをもった書体からさらに風韻高雅な書風へと芸術性を高めていく。

 しかし、奈良は自己宣伝を極端に嫌って、書に親しんでいることをほとんど口外せず、作品を外部に発表することもなかった。
 そうはいっても、嚢中の錐は必ず現れ出ずにはおられないもので、奈良の書道も人伝てに外に漏れ、識者の注目をひくところとなって、後年は県内の書道展に賛助出品したりしている。

 ある時など、審査員として中央から招聘された書家が、奈良の作品を見て、「自分はまだこの境地に達していない」と述べ、一家を成した専門家を感嘆させたこともあったと伝えられている。

 虚名を嫌って容易に社会に出ていこうとしなかった奈良だが、その実直さ堅実さが逆に厚い人望につながって、秋田信託株式会社社長、秋田銀行頭取などの要職にも推されている。

 昭和に入ると、奈良の蒐集した書画は相当な数にのぼり、しかも秀作ばかりなので、奈良コレクションとして全国的に知れわたるようになっていた。

 昭和七年(一九三二)、奈良は東京四ツ谷に家を買い求め、月に一度くらい上京してそこを根拠に多くの名画を買い求めた。念願であった渡辺崋山の晩年の傑作「千山万水図」を入手したのもこの前後であった。この作品は、昭和二十七年、国の重要文化財に指定された。

 奈良は、佐竹曙山や小田野直武が描いた洋風画、すなわち秋田蘭画を高く評価して精力的に蒐集、曙山の「湖山風景図」、直武の「児童愛犬図」、亜欧堂田善の「両国図」など九点は、昭和十一年に国の重要美術品に認定されている。

 昭和三十三年、秋田市は奈良に文化章を贈ったが、生来名誉欲から遠いところに立っていた奈良には、何ほどの感激も与えなかったようである。

 孤高の人奈良磐松がその生涯を静かに終えたのは、昭和三十六年三月十三日で、享年八十一歳であった。

 遺志により、秋田県出身者の書画、重要美術品を含む六十二点が、昭和三十六年九月に秋田市美術館に寄贈された。

柴山 芳隆 (S36卒)