仁平 高 (にへいたかし)

県人のブラジル移住第一号

2014年04月18日更新

移民より一足早く渡航

 明治四十一年(一九〇八)六月十八日、ブラジル国サントス港の東の空が白み始めたとき、笠戸丸(6、023トン、日露戦争の戦利病院船)の甲板は、高まる興奮で眠れぬ一夜を明かした人びとの、熱っぽいうごめきに包まれていた。この年の四月二十八日に神戸港を出て、西回り航路で五十二日。遂にやって来た南米大陸を目の前にして、期待と不安の交錯する第一回日本移民七九一人(うち自由移民一〇人)の、はやる胸のうちを知ってか、知らずにか、船足は鈍かった。笠戸丸がサントス港の入り囗でエンジンを止めたのは、もう午前十時近く。港はひどくわびしく、海岸には想像していた椰子の並木など、まるで見当たらなかった。

 その時、岸壁から笠戸丸の船上にじっと目を凝らす日本人グループの中に、一人の色白な青年がいた。移民を現地で迎え入れるためシベリア→英国経由で先回り派遣されていた日本人通訳(五人)の中の一人で、その名は仁平高。笠戸丸には彼の後を追って来た妻・綱(つな)が乗っていた。甲板を見詰める仁平の眼差しが、他の通訳たちのそれよりも、ひときわ熱を帯びていたとしても無理からぬことである(昭和五十三年秋田県刊『南十字星と共に―秋田県海外移住七十年の歩み』による)。

 この仁平高が秋田市手形出身と分かったのは昭和四十八年春のこと。ブラジル秋田県人会の新事務所開きが行われた際、在サンパウロ日本総領事が「…出迎えた通訳五人組の一人に東京外国語学校でスペイン語を専攻された仁平高がおられ、秋田県出身の第一号渡航者として忘れることのできない方…」と挨拶したことによる(在サンパウロ日本総領事館資料)。

 それまでは大正六年(一九一七)六月、サンパウロの海外興業会社嘱託医としてセイ夫人と共に移住した秋田県雄勝町出身の高岡専太郎医博(昭和三十八年七八歳没)が秋田県人移住第一号とされ、それが長く定説になっていた(ブラジル秋田県人会資料)。

 まさにドンデン返し。〝マレッタ(マラリア)博士”こと高岡の名があまりにも高く、仁平高の名は現地の日系社会で、いつしか霞んでしまったものらしい。

 次いで翌四十九年(一九七四)、仁平高の墓が菩提寺でもない秋田市手形蛇野八九、闐信寺(てんしんじ)の墓地に現存することが判明。墓碑の裏面に刻まれた「大正七年二月二十日没」によって、三二歳の短い生涯であったことが確認された。間もなく青年時代の写真も東京で見付かった。

 ベールが剥がれるまで時間がかかったのは、仁平に子供がいなかったこと、仁平家の直系子孫が東京に移り住み、秋田とのパイプが殆ど切れていたこと―などによる。

秋中同期生に斎藤佳三ら

 仁平高は明治十八年(一八八五)十一月一日、南秋田郡秋田手形谷地町上丁八番地(現秋田市)で高蔭・ナカの四男に生まれた。仁平家は旧久保田藩の士族で、母・ナカは弘化四年生。父・高蔭は天保十四年生で、保戸野の士族小野崎家から仁平家の養子に入った。明治期は秋田県庁職員を務め、大正期になって福岡県の鉱山に転出したという(戸籍関係資料などによる)。

 仁平高は明治三十七年三月、秋田中学を卒業し、東京外国語学校(現東京外語大)スペイン語科に進んだ。秋田中学時代の同期生には、商業デザインの草分けで音楽家でもあった斎藤桂三、帯広畜産大や北海道教育大の学長を務めた田所哲太郎理博・農博らがいる(『秋田高校同窓会名簿』)。

 明治四十一年(一九〇八)三月、皇国殖民合資会社(水野龍社長)が初めてブラジル移民を募集したとき、仁平は通訳として採用された。そして第一回移民船「笠戸丸」をブラジル国サントス港で出迎えるため、他の四通訳(平野運平、大野基尚、嶺昌、加藤順之助)と共に、この年の三月二十七日、移民たちより一足早く、東京を出発し、敦賀→ウラジオストク→シベリア鉄道経由で英国サザンプトンに至り、そこから南米行きの船に乗って五月三日、サントス港に上陸していた。仁平は二二歳だった(日本外務省資料)。

米国の排日でブラジルが浮上

 当時、日本人の移住先国は、明治元年(一八六八)からのハワイをはじめ米国本土、オーストラリア、ペルー、フィリピン、フィジー、ニューカレドニアなど。それも一旗あげたら〝錦衣帰国”の出稼ぎ型が大半で、初めから移住先国に骨を埋める覚悟の永住型は少なかった。

 明治三十七(一九〇四)~三十八年(一九〇五)の日露戦争後、なぜ俄にブラジルが移住先国として浮上したのか。それは次の三点による。

  • ① 米国やカナダは当初、日本は強国ロシアを破った〝奇跡の民族”として好意を持っていた。そのうち、好意が脅威に変わり、排日機運が高まった。背景には白人側の人種差別、日本人の〝働き過ぎ”や白人との非協調性などがあり、最終的には排日移民法の成立にエスカレートした。
  • ② ブラジルは当時、奴隷(明治二十二年解放)に代わる欧州移民が過重労働などで帰国し、コーヒー農場労働者が払底していた。
  • ③ 日露戦争後の日本は、反動不況や凶作による農村疲弊、人口急増、失業者続出などで、その対策に苦慮していた(旧海外移住事業団資料)。

 だから、ブラジルへの移住は〝問題の海外輸出”でもあったとはいえ、ブラジル側は「奴隷の身代わり(欧州移民)の、そのまた身代わり」として勤勉な日本移民は大歓迎だったのである。事実、皇国殖民合資会社の移民募集資料にも「移民1人二付、1日ノ純収入金1円20銭卜仮定スレバ、3人ノ1家族ニテ優二3円60銭ノ純収入ヲ毎日貯蓄スルコトヲ得…」とある。当時、日本では高収入の石工ですら日給五〇~六〇銭で、ブラジルは〝極楽のような豊かな国”に見えた。

 東京外国語学校スペイン語科で学んだ仁平にとっても、スペイン語と〝兄弟語”のポルトガル語が国語のブラジルは、格好の活躍舞台である。彼はブラジルへ先発する直前、東京市本所区本所亀沢町一丁目四四、高橋ヤスの妹・綱と結婚し、笠戸丸でやって来る新妻をサントス港で出迎えることにした。綱は仁平より六歳年下の明治二十四年四月十二日の生まれで、入籍(明治四十一年三月二十八日)の時点では、満年齢でまだ一六歳だった(戸籍資料)。

聞いて極楽、見て生き地獄

 この後、仁平夫婦はどんな人生行路をたどったのか。その答えを求めて、筆者(渡部)はこれまで四回、ブラジルに渡った。だが、初回(昭和四十五年)は空振り。二回目(昭和五十三年)に収穫あった。後にブラジル秋田県人会長となる進藤次夫(河辺郡雄和町出身、サンパウロ市住)から『香山六郎回想録―ブラジル第一回移民の記録』(昭和五十一年サンパウロ人文科学研究所刊、B5判・438ページ)を提供されたのである。

 著者の香山は明治十九年一月六日、熊本県玉名郡高瀬町に生まれた人。笠戸丸で渡伯、多彩な職業を経て最終的には邦字紙『聖州新報』の社主兼主筆を永く務めた。昭和五十一年九〇歳没(『香山六郎回想録』)。

 香山と仁平は渡航当時から親しく付き合い、サンパウロ市で同居生活も何度かしているほど。従って、『回想録』にも仁平はしばしば登場する。以下はポイントの点描―

  •  ◎笠戸丸がサントスに入港して二〇日近く経った七月六日、仁平は愛媛県と山口県の移民を引率してソロカバナ線(鉄道)サンマノエル駅のソブラート耕地(ブラジル人経営のコーヒー農場)に入り、そこの通訳となった。
  •  ◎ソブラート耕地の受け入れ体制は、皇国殖民合資会社の宣伝文句とは全く逆で、宿舎・食事・労働のレベルはかつての奴隷時代と何ら変わらなかった。勿論、収入も乏しく、錦衣帰国どころか、この世の生き地獄に等しかった。これは日本移民が配耕された他の五耕地にも共通しており、契約を無視して脱走する移民が続出した。仁平も通訳の費用を惜しむ農場主によって、間もなく解雇された。
  •  ◎失職した仁平はサンパウロ市に戻り、翌四十二年三月二日、性格不一致の妻と協議離婚した。夫婦の間に子供はなかった。
  •  ◎綱はその後、ブラジル人や日系人宅で家政婦奉公。明治四十三年(一九一〇)五月、ブラジル国リオデジャネイロに寄港した一等巡洋艦『生駒』に便乗し、日本に帰国。以後の消息は不明。
  •  ◎仁平はサンパウロ市で皇国殖民合資会社ブラジル代理人・上塚周平の片腕として、しばしば移民紛争の解決に当たった。暇な時には上塚代理人か、香山六郎の住居に潜り込んで人生を謳歌していた。
  •  ◎渡伯四年後の明治四十五年(一九一二)、仁平は再婚。相手は第二回旅順丸移民(明治四十三年六月二十八日サントス入港、九〇九人)でガビロバ耕地に入った富山県出身・青木吉太郎の長女・美代である。その名の通り大変な美人で、渡航途中、同船者から〝旅順丸の花”とうたわれた。結婚時は一七歳か一八歳だった。
  •  ◎再婚して間もなく、仁平は胸を患っていることが判明。悪化を心配した周囲の説得で大正二年四月、竹村殖民商館(皇国殖民合資会社の後身)の移民船「第二雲海丸」で単身一時帰国した。その際、美代は日系社会で購入第一号だったシンガーミシンを香山六郎の世話で処分。サントス港のアメリカノ・ホテルで夫と涙の別れをした後、両親の住むガビロバ耕地に帰って行った。結果として、永遠の別れとなった。
  •  ◎「帰国した仁平君から秋田美人芸者の絵葉書に消息を綴ってきた。『第二雲海丸の長航海の後に神戸港に着いた俺は、久しぶりに餅菓子を食い過ぎ、腹をこわして郷里に帰った』と記してあった」

 『香山六郎回想録』は、以上のような要旨で終わる。  

妻を異郷に残して三二歳没

 帰国後の仁平高について、仁平家直系の東京都小平市小川本町二〇七七、仁平高俊(昭和五十三年八六歳没)や、その長男高正(外科医)らに尋ね、いろいろ教示を頂いた。

 それによれば、いったん郷里の秋田市に帰った仁平高は間もなく上京、聖路加病院で療養生活を続けた。「体調の良い時には力行会(海外移住関係者組織)の寄宿舎である『巣鴨館』に出入りし、若い人たちにスペイン語を教えていた」(長野県出身、サンパウロ市で歯科医・村上真市朗)との証言もある。

 だが、病状は年を経るにつれて悪化し、遂に再渡航の夢はかなわなかった。その死は大正七年二月二十日。三二歳の若さだった。

 「仁平家の菩提寺は秋田市旭北栄町六、鱗勝院なのに、高叔父の墓が同市手形蛇野の闐信寺墓地にあるのは、市街地の鱗勝院墓地よりも、生家に近くて見晴らしも良い闐信寺がよかろう、という私の父・理吉(高の長兄、昭和十九年七七歳、朝鮮で没)の提案による。高叔父は秋田中学時代、野球やテニス、ボートが得意だったらしい」(甥の東京・井上高歩による)。

 その仁平高の墓には、毎年六月十八日(海外移住の日、笠戸丸のサントス入港日)、あきた南米交流会のメンバーが欠かさずに詣でている。

海外雄飛の扉を開けた秋中勢

 それにしても、第一回笠戸丸移民をサントス港で出迎えた通訳五人組のうち、四人までが肺結核や風土病で若死にした。ただ独り、大野基尚だけが昭和三年に帰国し、郷里・大分県大野郡大野町の町長に選ばれている。

 また、秋田県人として仁平高に次ぐブラジル移住者は大正三年渡航の栗山篤(明治十九年生)、斎藤武雄(明治二十三年生)、小貫正夫(明治二十四年生)である。

 三人に共通しているのは①秋田市出身②秋田中学の同窓生(栗山は四年中退、斎藤は明治四十三年卒、小貫は同四十四年卒)③秋田中学野球部に在籍―など。

 栗山はブラジルで農場主の傍ら、野球の強打者として鳴らした。昭和四十年七九歳没。東京外語卒の斎藤は農業の後、在サンパウロ日本総領事館にスカウトされ、副領事に。昭和十九年五四歳没。小貫は農場主に。昭和三十三年六七歳没(三氏の子供や縁戚者による)。

 いずれにしろ、秋田県人の南米雄飛をリードした先達たちが、進取の気性に富む「秋田中学勢」だったとは、如何にも痛快である。

渡部 誠一郎 (S25卒)