西村 祥治 (にしむらしょうじ)

日本海軍、最後の勇将

2014年06月06日更新

「犬死に」から勇将に昇格

 先の太平洋戦争では比島(フィリピン)レイテ島沖を舞台に、日米両軍による空前絶後の大海戦が繰り広げられた。それは昭和十九年十月二十三日から二十五日まで三日間の修羅場だった。結果は日本側の歴史的な大敗であり、西村祥治中将の率いる戦隊も海の藻屑と消えた。一時期、西村中将の死を「猪突猛進の犬死にだった」と酷評する人たちも少なくなかった。

 だが、近年、戦争記録の調査研究が進むにつれて、当時の客観的な状況が分かってきた。その結果、大敗北の原因は海軍軍令部の無謀な作戦のほか、日本の主隊である第一遊撃部隊(長官栗田健男中将)の全く不可解な大反転(戦場離脱)にあったことが明らかになり、西村中将に対する評価は「武人の鑑」「日本海軍、最後の勇将」と大逆転した。

 生死を超越し、従容として出撃した西村の勇名は色褪せるどころか、世紀を超えて断然輝きを増していくに違いない。

舎監襲撃事件で諭旨転校

 西村祥治は明治二十二年(一八八九)十一月三十日、南秋田郡船越村ニ一四(現男鹿市)、愛治・タヱの一三人兄弟姉妹の五番目(四男)に生まれた。当時の西村家は地主で、代々の当主が村の指導者だった家柄。父の愛治も船越町長(明治三十八年町制施行)を二期(大正五年、九年当選)務めている。また、祥治の次弟(五男)資治は秋田中、八高、東京帝大卒の農学博士で、ビール醸造研究学者として高名だった。生家の子孫は現在、船越で西村書店を営む(戸籍資料など)。

 祥治は船越小から秋田中学に進み、寄宿舎に入った。四年生の三学期、強圧的な舎監を舎生たちが襲った事件に絡んで諭旨転校処分を受け、横手中(現横手高)に移った(明治四十年二月)。それから間もなく海軍兵学校に合格、翌四十一年三月の横手中卒業と同時に郷関をあとにした(『秋高百年史』など)。海兵卒業は明治四十四年七月(三十九期)。一四八人中、一九番の好成績。大正五年四月、二六歳(中尉)の時に元舞鶴要塞司令官木村平太郎陸軍少将(島根県出身、陸士十期)の長女・操と結婚し、翌六年二月二十八日、長男禎治が誕生している(昭和五十七年、秋田市・ツバサ広業刊『秋田県戦没者芳名録』)。

一人息子が比島で戦死

 以後の西村祥治は巡洋艦航海長、駆逐艦・重巡洋艦・戦艦などの艦長として海上生活一筋の軍歴を重ね、順調に累進していく。昭和十六年十二月八日に太平洋戦争が勃発した時、西村は前年少将に昇進していて、第四水雷戦隊指令官の任にあった。開戦当日、日本の連合艦隊がハワイ真珠湾を奇襲、大戦果を挙げていたころ、西村の率いる艦艇はフィリピンのルソン島などで陸軍部隊の上陸を支援し、相次いで成功させている。

 だが、開戦から半月後の昭和十六年十二月二十三日、同じルソン島のレガスピー湾で、一人息子の禎治海軍大尉(当時二四歳、二・三男は夭折)がスコールのためサンゴ礁に乗り上げた飛行艇の積載爆弾事故で命を落としたのである(実松穣著『ああ日本海軍』)。禎治大尉は海兵を優秀な成績で卒業した評判のエリート士官で、将来を嘱望されていたという。

 父子ともに同じルソン島で奮戦しながら、そのことを互いに相知らぬまま幽明境を異にするとはー加えて、禎治大尉は小栗孝三郎海軍大将の二女・正子と結婚してまだ一年余のこと。西村少将(当時)にとっては、生涯忘れ得ぬ痛恨事であった。

 その頃の唯一の救いは、日本軍の陸・海・空での連戦連勝だった。ハワイ真珠湾の米艦隊潰滅に次いで、マラッカ海峡を抑えていた英国艦隊も轟沈。さらにマレー半島に上陸した日本軍は、シンガポールで英軍を降伏させ、インドネシアでも宗主国・オランダ軍の息の根を止めた。南方戦線は一時期、全く快調に展開していたのである。

物量と新兵器で反撃を許す

 前線の大きな勝利と戦域の拡大は、一方では補給線の延び過ぎをもたらす。この点について日本軍は当時、占領地での食料や戦略物資の調達は相当程度可能だし、連合国軍の陣容建て直しには時間もかかる、と見ていたようである。だが、これはとんだ誤算。連合国側はそれぞれ工業先進国であり、忽ち物量と最新鋭の科学技術にモノを言わせて反撃に出てきた。つまり軍艦や潜水艦をいくら沈めても、また飛行機をいくら撃墜しても、敵は次々に二倍、三倍と補給してくる。

 加えて、日本軍を遥かに上回る高性能レーダーの登場。この結果、日本軍は制空権も制海権も失い、艦や機は百発百中、餌食にされた。とりわけ致命的だったのは、昭和十七年六月のミッドウェー海戦、同年八月からのガダルカナル島争奪戦の敗北、昭和十九年六月からのサイパン島攻防。特にマリアナ沖海戦の惨敗で、日本海軍は航空母艦戦闘力を全く喪失し、崖っ渕に追い詰められたのである。

遂に最後の総力戦を決意

 昭和十九年七月、連合国軍のサイパン島占領―比島(フィリピン)への侵攻必至となった時点で、日本海軍は〝最後の決断”を余儀なくされた。

 それはー「比島を失えば、日本本土と南方戦域が遮断され、本土が干上がってしまう。そうなっては、連合艦隊を保持していても無意味だ。この際、残っている全艦艇を総結集して敵の大挙侵攻泊地(比島レイテ湾)に突入攻撃し、殲滅させよう」という勇ましいものであった。

 当時、日本海軍の生き残り艦艇は、多くが第二艦隊(長官栗田健男中将)に配属され、燃料の豊富なシンガポール近郊のリンガ泊地で猛訓練を重ねていた。

 その一方で、来たるべき決戦は〝総力戦”ということで、既に戦力外として広島県呉軍港で余生(訓練用)を送っていた老雄戦艦「山城」と「扶桑」の二隻も「その巨砲を生かすべきだ」との意見によってリンガ泊地に送り込まれ、第二戦隊が編成された。そして、この第二戦隊の司令官に任命されたのが、ほかならぬ西村中将であった。

 西村が乗ることになる「山城」(34、500トン)は、確かに36センチの巨砲を十二門も備えている大艦であった。だが、大正六年(一九一七)建造の旧式だけに、時速20ノットそこそこの鈍足で、他の新鋭艦との共同行動ができない。それに防禦力も弱く、魚雷一発でたちまち足腰がよろけてしまう。そんな老艦を制海権も制空権もない海域に派遣し、どんな戦果を期待するというのか。実戦を知らない世代からすれば、これは総力戦に名を借りた一種のまやかし、海軍軍令部の独善としか思えない。この戦隊の司令官に任命された西村中将こそ、迷惑干万だったろう。

 だが、当時の心境を綴ったようなものは、何も遺していない。とにかく、どんな命令にしろ、朕(天皇)の命令ということで、文句なしに従わなければならなかった。そこに当時の軍人たちの苦衷と深い懊悩があったに違いない。西村中将はリンガヘ赴く直前、親友の伊藤整一海軍軍令部次長を訪ね、一夜痛飲した。その際、西村は「今度こそ、俺は禎治(二四歳で戦死した一人息子)のところへ行くんだぞ、伊藤ッ!」と何度も繰り返したという(後に西村の葬儀に駆け付けた伊藤が西村の妻・操(昭和二十五年五三歳没)に明かした秘話)。これは特攻自爆とか、死に急ぎではなく、生死を超越して任務を達成したいという決意の吐露ではなかったか。

三〇分の戦闘で壮烈な最期

 海軍軍令部の立てた総力戦の基本戦略は、栗田中将の率いる第二艦隊を戦艦「大和」以下の三二隻(栗田主隊)と、戦艦「山城」以下七隻から成る西村支隊に分け、両隊をボルネオのブルネイ泊地から異なるルートで進撃させつつ敵の泊地(レイテ湾)に「同時突入」させる―というものだった。

 それから間もない昭和十九年十月二十日、連合国軍は大輸送船団によるレイテ湾侵攻を始めだした。この大船団を上陸前に叩けば、敵の反撃戦略は根底から覆る。まさにチャンス到来というわけで、栗田主隊と西村支隊はブルネイ泊地から二手に分かれて出撃し、レイテ湾を目指した。その際、同時突入(X日)は「十月二十五日未明」と決まっていた。

 西村支隊は途中、米軍機の空襲に遭いながらも予定時刻通りレイテ湾手前のスリガオ海峡に達した。この時(二十五日午前三時過ぎ)、西村支隊は魚雷攻撃を受け、戦艦「扶桑」と駆逐艦三隻(満潮・朝雲・山雲)を失った。それでも屈せずに航行を続け、午前三時五十分、遂にレイテ湾口に達した。

 だが、そこにいるはずの栗田主隊の艦影は、一隻もなかった。明らかに約束違反。代わり?に待ち伏せしていたのは、われに十数倍する米国第七艦隊の四三隻だった。その陣容は戦艦八隻、重巡洋艦四隻、軽巡洋艦四隻、駆逐艦二七隻。

 対する西村支隊は既に四隻を失い、残るは戦艦「山城」、重巡洋艦「最上」、駆逐艦「時雨」の三隻。まさに弱者が身のほども知らずに強敵に立ち向かう〝蟷螂の斧〟にそっくりの状況であった。

 それでも、双方が暗夜に壮烈な砲撃戦を展開。旗艦「山城」は無数の砲弾を浴びて火だるまになりながらも奮戦した。そのうち、横腹に魚雷三発を受け、最期が近付いた。

 西村中将は落ち着いた声で部下を激励し、最期の声は「機動部隊司令官に報告。われレイテ湾に向け突撃、玉砕す」。そして篠田勝治艦長(少将)と一緒に泰然と艦橋に陣取ったまま「山城」と運命を共にした。時に二十五日午前四時十九分。山城の乗員一、六三四人中、生存者はわずか一〇人。その一人、江崎寿人主計大尉(当時二六歳)によって最期の状況などが終戦後、明らかにされた(江崎の手記『西村の最期』)。西村は満五四歳。正二位勲一等旭日大綬章。その霊(護国院殿精忠義烈日祥大居士)は東京・青山墓地に眠る。

不可解な栗田主隊の反転

 肝心の栗田主隊は一体、どこで何をしていたのか。一口に言えば、怯懦からかフィリピン海域で〝合理的”に時間を潰し、間もなくレイテ湾に突入できる海域に達した二十五日午前六時(西村支隊の玉砕一時間四十分後)、なぜか俄に反転し、そのままブルネイ泊地に逃げ帰っている(平成十一年十月二十四日付、産経新聞特集・紙上追体験『あの戦争』一四九などによる)。

 栗田中将は、やがて第二艦隊司令官の任を解かれ、昭和二十年一月十五日、海軍兵学校の〝最後の校長”に。そして戦後は〝敗軍の将、兵を語らず”で、寡黙を通した。

 海軍記者として高名だった伊藤正徳は、その著書『連合艦隊の最後』の中で「西村提督への批判(猪突猛進の犬死に)は正鵠を失するばかりか、著しく礼を失する」と書き、作家の大岡昇平は『レイテ戦記』で「栗田艦隊の反転は悔いを千載に残した」と結論している。

 旧海軍に詳しい人たちによれば、現役の中将が乗艦と運命を共にしたのは、日本海軍創設以来、西村中将が初めてとか。指揮官の真価は戦場で平静心を保ち、責任を立派に果たす能力と勇気の有無にあるとすれば、従容として命令を欣諾し、最後まで陣頭に立って散華した西村中将は「第一級の提督」と評価できるのではないか。

 また、海軍関係の著書が多い石渡幸二は『太平洋戦争の提督たち』の中で「栗田中将のような弱将を重要な位置に据えたのは、日本海軍の信賞必罰を欠いた事なかれ・年功序列主義による弊害」(要旨)と鋭く指摘し、西村中将を『勇将』と推賞している。

 かつて「山城」に乗り組んだことのある軍人や、その遺族有志は昭和六十年十月二十五日、「山城会」を結成した。二年後の祥月命日には慰霊団(約九〇人)をレイテ湾に送り込み、慰霊祭を行った。その時、慰霊団の面々は、大海原に向かって声を限りに叫んだ。「オーイ、皆を迎えに来たぞォー。一緒に日本へ帰ろう」と。これは勇将に対する最大の鎮魂賦ではなかったか。あらためて不戦を心に深く誓い合った(西村中将の甥・西村峰隆(秋田市住)や元「山城会」会長鈴木政治郎=秋田県北秋田郡合川町上杉による)。         

渡部 誠一郎 (S25卒)