鈴木 健次郎 (すずきけんじろう)

「青少年の足を洗う」 名校長

2014年08月15日更新

青年教育

 本校の第二十八代目の校長を務めた鈴木健次郎が秋田市土崎(旧南秋田郡土崎港町本山町十三番地)で誕生したのは、明治四十年(一九〇七)二月十日である。

 父親の勤務の関係で、二歳から二年間樺太で過ごした後横手市に移り住み、小学校三年まで同地で暮らした。四年生のとき秋田市の築山小学校に転校してそこを卒業している。

 秋田中学の卒業は大正十三年(一九二四)だが、五年間で欠席三日、遅刻・早退三回というまじめな生徒で、卒業時の成績も九十七名中五番という立派なものであった。

 秋中を終えて進学した官立山形高等学校(山形大学の前身)では、野球部に所属するとともに、弁論部にも籍を置いた。三年次には、野球部のキャプテンとして活躍している。ポジションはセンターであった。

 昭和二年(一九二七)に山形高等学校を卒業して東京帝国大学法学部法律学科に入学するが、二年後の十二月二十四日には、カトリック本郷教会で洗礼を受けている。霊名はミカエルで、代父は田中耕太郎(当時東大教授、後に最高裁判所長官)であった。

 鈴木が東大を卒業した昭和五年は大変な不況下にあってろくな就職口もなく、鈴木もパン屋で働いたりカトリック系の著作を翻訳したりしながら暫時糊口をしのぎ、同年五月には朝鮮元山神学院という牧師を養成する学校に職を得て、トラピストの一画に起居しながら法律を教えた。

 ところが、その年の十二月に兄重雄が急逝、翌年九月、鈴木は家を継ぐため元山神学院を退職して東京に戻らざるを得なかった。

 鈴木が日本青年会館を訪れて面接を受けたのは昭和七年十二月である。大日本連合青年団事務所の嘱託として採用され、雑誌「青年」を担当するようになって、鈴木の青年教育の仕事がスタートする。

 下村湖人が名作「次郎物語」を「青年」に発表したのは昭和十一年で、ここから鈴木と下村の交友が始まることになるが、下村は鈴木にとって人生の導師といってよい存在であった。

 なお、この昭和十一年には大日本連合青年団の機構改革があり、鈴木は、六大都市青年団の窓口である初代商工課長に就任した。地方の青年対策と違い、都会の青年対策は東大出の鈴木でなければなかなかうまく進まなかったであろうと指摘されている。

 昭和十四年、ノモンハン事件が発生して軍国色が強まるなか、大日本連合青年団は大日本青年団と改称され、初代団長には海軍大将が就任したりしているが、この時期、鈴木は「青年指導」誌に「青年団と青年団的なるもの――都市青年団に関する一考察――」と題した論文を発表し、翌年には、やはり「青年指導」上で「都市青年団振興に関する諸問題―― 主として経営上留意すべき具体策について」を論じるなど、活発な論述活動を展開している。

 太平洋戦争が始まった昭和十六年には大日本青少年団が設立されて鈴木は六月にそこの組織課長に任命され、二年後の九月には企画室幹事に就任した。

 しかし、戦局がすっかり行き詰まった昭和二十年になると青少年団員は大日本学徒隊に吸収され、大日本青少年団も解散のやむなきに到る。

 鈴木は、文部省総務局事務嘱託の辞令を受けて引き続き青少年関係の仕事に携わるが、それからわずか二ヵ月後には終戦を迎えたのであった。

社会教育

 戦後の鈴木の活動は、終戦の翌月にはもう始まっている。九月に文部省の体育局嘱託に任じられたのである。鈴木は「青少年団体の設置並に育成に関する件」の文書を起案し、戦後青少年の方針をいち早く示した。

 昭和二十一年七月、文部次官通牒「公民館設置運営に関する件」が各地方長官宛てに発せられて戦後の公民館活動はその第一歩を踏み出すが、二十三年一月に下村湖人の主宰誌「新風土」の編集同人となっていた鈴木は、四月に文部省社会教育局事務補佐員に任命され、さらに翌二十四年六月には社会教育局施設課長補佐となって、本格的に社会教育に関わっていくことになる。

 二十五年三月には、『郷土自治建設と公民館』を出版する一方、別府市で開催された第一回全国都市公民館運営協議会の講師を務めるなど、公民館活動を中心に社会教育の分野で次々と先進的な仕事に取り組んだ。

 鈴木が文部省を退職して福岡県教育委員会社会教育課長に転身したのは昭和二十六年六月、鈴木四十四歳のときだが、これは、自分の公民館理論を現場で実証してみたいとの意気込みを具体化したものであった。

 福岡では、「教育宝くじ」の発売、県社会教育会館や県立青少年野営訓練所の建設など、アイデアをいろいろ出して社会教育の基盤作りに努めた。

 なお、三十一年からは、九州大学教育学部の講師も兼任して、社会教育施設論を中心に学生たちに講義している。

 福岡で八年間過ごした鈴木は、昭和三十三年九月に福岡県教育委員会を辞し、株式会社日本教育テレビ(NEC)に入社する。教育・教養番組を主体にした民間のマスコミとしては日本最初の会社だが、いわば社会教育の一分野なので鈴木も意欲をもってその創設に参加したのであった。なお、日本教育テレビは現在のテレビ朝日につながっている会社である。

 入社当初の鈴木は、編成局第一制作部に勤務する課長待遇の嘱託であったが、三十六年からは美術部のデスクとして、番組の企画立案や予算編成などのほか、映像字幕のタイトル、文字のチェックなどにも当たった。

母校の校長に

 昭和三十八年三月、秋田高校の村岡一郎校長が県教育研究所に転出することになり、後任を誰にするか問題になっていた。

 古村精一郎が会長を務める同窓会のなかでは、できれば引き続き後任は同窓生からというムードが強かったが、最終的には小畑勇二郎知事に人選をお願いするということになった。

 その話を聴いて上京した小畑知事から校長就任を要請された鈴木は五分もしないうちに要請を受諾した。秋田中学の同期生である小畑知事の厚い友情に感激したのである。

 四月四日、卒業以来三十九年ぶりに母校に帰った鈴木は、その日の午後に開かれた最初の職員会議で、「青少年の足を洗う」愛情をもって教育に邁進したい旨のあいさつをした。

 これは田沢義鋪のことばに基づいたものらしいが、もともとは、聖書の中のキリストが弟子たちの足を洗うところから来ているもので、自己を捧げて他を生かす献身的な愛を表現したものであった。

 翌五日に新任式が行われたが、ここでの生徒たちに対するあいさつもまた歴史に残るものであった。

 鈴木は、アメリカのハーバード大学のジョンソン教授の言葉を引用しながら、汝、何のためにそこにありや――いつ、どんな時、どこで、誰に、この問いを発せられても即座に断言できる自覚ある生活を送ってもらいたい。と呼びかけたのである。

 鈴木のこの言葉は、秋高語と称して、ホームルームの討議や校内の弁論大会等において盛んに使われ、それはやがて同窓生や保護者の間にも伝わっていった。

 青年教育、社会教育の経験は豊富な鈴木も、学校教育は初めてであったし、県内の教育界の事情に疎かったことなどもあって当初は五里霧中の学校経営にならざるを得なかったが、高校教育の専門に関わる細かいことは教職員に任せ、自身は田沢、下村に培われた教育精神のもとに、青年らしいはつらつとした生気あふれる学園づくりをめざして努力していく。

 指導者のあり方として鈴木は、下村湖人の白鳥芦花に入るという言葉を座右の銘としていた。これは、禅語(臨済録)に白馬芦花に入るとあるのを、馬ではイメージがごつ過ぎるというので、鳥に変えて用いたものだという。

 鈴木は、暇があれば教室を回って生徒の学習状況を見、各部の練習や合宿などにも積極的に顔を出して生徒を励まし、みずから同行共感の教育を実践していった。

 また、田沢湖高原でのホームルーム研修会、全校太平山登山、クラス対抗の合唱コンクールなどを次々に提案・実践するなど、全人的立場から教科外活動を充実して、真の人間性の育つ教育活動を推進していった。

 秋田高校の校長はそれに付随した対外的な公職も多く、鈴木も秋田県高等学校長協会会長、秋田県高等学校体育連盟会長、秋田県高等学校野球連盟会長、などの要職を歴任している。

 昭和四十二年、四年間の勤務を終えて定年退職することになったとき、期せずして校内外から鈴木校長の退職を惜しむ声が沸き上がり、同窓会の一部からは留任運動も持ち上がったが、鈴木は、引き際が大切だと言って退任の決意を変えなかった。

 鈴木がいよいよ学校を去るときは、生徒が校舎の外に走り出て、高く手を振りながらうぐいす坂を下っていく鈴木をいつまでも見送っていた。

 退職後の鈴木は、秋田県の新生活協議会副会長兼事務局長として新生活運動に力を入れ、四十四年には財団法人秋田県青年会館理事長にも就任するが、翌四十五年の夏、疲労から体調を崩して入院、胃カメラによる検査を終えて程もなく容態が急変して、八月二十四日にまだ六十三歳という年齢でこの世を去った。

 小畑知事が委員長を務めた葬儀は、八月三十日に秋田県民会館で行われ、千二百名の参列者一人ひとりが白菊を献花して、鈴木との永遠の別れを惜しんだ。

 葬儀終了後、遺族から、建設中の秋田県青年会館に香典返しがあり、それを基にして〈鈴木文庫〉が創設されて、鈴木の人と思想を継承する基地となった。

 同文庫が中心になって昭和四十九年に『鈴木健次郎集』(全三巻)を編集・発行、鈴木の業績と人となりを今日に伝えている。

柴山 芳隆 (S36卒)